
99の顔を持つ元妻は、復縁なんてお断り!
章 2
ついにこの日がやってきたというのに、汐凪は未練を抱いてしまっていた。
彼女は彼を見上げた。瞳は潤み、赤い唇が開いては閉じ、最後に一言だけ紡ぎ出される。「本当に、私と離婚するの?」
男は比類なき美貌に表情はなく、ただ冷ややかに彼女を見下ろしている。
彼は口元をわずかに上げ、冷ややかな瞳に戯れの色を浮かべた。
その言葉は雷鳴のように汐凪の頭上を打ち据え、意識的に無視してきたすべての現実を白日の下に晒した。
黒崎家において、幸一郎以外に彼女を「黒崎夫人」として認める者など誰もいなかった。
汐凪は頭に血が上るのを感じた。理性も冷静さも吹き飛び、ただ原始的な感情だけが残る。
瑛斗は彼女を見下ろした。華やかな顔立ち、赤くなった目尻、そして自嘲気味に歪められた赤い唇。
妻として、汐凪が合格点であることは認めていた。
ただ残念なことに、女などいくらでもいる。
たかが汐凪一人だ。彼女がいなくとも、思乃がいるし、他の女だっている。
「手切れ金を確認しろ。納得したらサインするんだな」
瑛斗は手首の高級時計をいじった。午後九時十分。そろそろ潮時だ。
汐凪は胸を締め付けられるような痛みを感じながら、言われた通りに離婚協議書の財産分与欄を開いた。
資産6億円に、車が一台、不動産が二軒。随分と気前のいい手切れ金だ。
驚愕する彼女の様子を見て、瑛斗の冷たい瞳に嘲りの色が浮かぶ。
やはり、骨の髄まで染み付いた金への執着は隠せないらしい。
「少ないと思うなら言え。色をつけてやることも考えなくはない」
「十分よ」
汐凪はペンを手に取り、協議書の末尾を開いた。そこにはすでに、瑛斗の署名があった。
鋭く、力強い筆跡だ。
彼女は一画一画、丁寧に自分の名前を書き記した。
最後の一画を書き終えると、全身の力が抜けていくようだった。目を閉じると、涙がひとしずく零れ落ちる。
三年間の夢から、覚める時が来たのだ。
瑛斗はふと顔を上げ、彼女の目尻に光る涙を見て、なぜか酷く苛立った。
望み通り離婚届を手に入れたのだ。喜ぶべきではないのか?
眉も目も、どこか虚無にスルーしたような色を浮かべている。
「明日の朝九時、役所で会おう」
長い指で離婚協議書をつまみ上げると、男は躊躇なく背を向けて立ち去った。その背中はあまりに無情だった。
部屋には汐凪一人だけが残された。彼女は体を縮め、膝を抱えて声を上げて泣いた。
最後の涙が落ちた時、瑛斗に対する最後の一縷の想いも共に葬り去った。
三年という期限は終わったのだ。自分を愛さない男のために傷つく必要など、もうない。
翌朝八時五十分。役所の前に、すでに瑛斗の姿はあった。
路肩に停められたリムジンの後部座席で、瑛斗はうつむき加減にパソコンのメールをチェックしている。
その表情は沈んでおり、感情を読み取ることはできない。
助手席に座った秘書の森川潤一は、バックミラー越しに男の様子を窺いながら、信じられない思いでいた。
今朝、黒崎社長からの電話を受けた時、彼は驚きのあまりベッドから飛び起きたほどだ。
社長と奥様が、今日離婚届を出しに行くなんて!?
彼は瑛斗が十二歳の頃から仕えており、もう十数年の付き合いになる。
瑛斗が交通事故で植物状態になった際、幸一郎が強引に嫁を取らせたのだ。
当時は瑛斗が目覚めることはないと思われ、この新しい若奥様に同情さえしていた。
ところが、奇跡的に目覚めた瑛斗はすぐに離婚することなく、数年間も何事もなく夫婦生活を続けてきた。
それが今日、唐突に終わりを迎えるという。
奥様は幸一郎が無理やり娶らせた相手だ。勝手に離婚などして、大旦那様はどう思うだろうか。
「今、何時だ?」
冷徹な声に思考を中断され、潤一はスマホに目を落とした。「八時五十五分です。社長、到着してから二十分が経ちました」
車内は静まり返り、二人の微かな呼吸音だけが響く。
潤一は堪えきれずに尋ねた。「社長、大旦那様にはご報告されたのでしょうか?」
瑛斗は目を伏せた。幸一郎は汐凪をいたく気に入っている。離婚を知れば、激怒するのは間違いない。
だからこそ、事後報告を選んだのだ。
潤一は察した。主人の眉間の皺、そして車内に立ち込める重苦しい空気。これは間違いなく独断専行だ。
彼が一度決めたことを覆せるのは、幸一郎くらいのものだ。
おすすめの作品





