
その溺愛、手遅れです。
章 2
緒方慎也は抵抗することなく、藤原初実がベタベタするのを許していた。
彼には確かに、クズ男になれるだけのスペックがある。「イケメン」なんて言葉じゃ安っぽすぎるほどだ。彫りの深い顔立ちに、骨の髄から滲み出る気品。
上半身は黒シャツ1枚で、襟元は少しだけ開いている。長い腕には包帯が巻かれていたが、惨めさよりも、どこか無造作で不敵な色気を漂わせていた。
これじゃあ、初実が既婚者相手だとわかっていても泥沼にハマるわけだ。
慎也は腰をかがめて初実を立たせた。「座って休んでなよ。ずっとしゃがんでると疲れるだろ? 検査結果も見たはずだ。俺はなんともないって」
「全部私のせいだよ。今日、慎也がわざわざ送ってくれなきゃ、こんな事故に遭わなかったのに」 初実は慎也に支えられてベンチに腰を下ろしたが、それは座ったというより、彼の懐に寄りかかったような距離感だった。
望月星奈は少し離れた場所に立ち尽くし、近づけずにいた。濡れた体の寒さなど、胸の奥の冷えに比べれば取るに足らない。
慎也にはとっくに愛想を尽かしている。それでも、他の女とイチャつく姿をこうも正面から見せつけられると、錆びた刃物で心を抉られたような鈍い痛みが走った。
(私と彼女、一体どっちが本当の「緒方の妻」なんだろう。)
1人の医師が星奈の方へ歩いてきた。手にした2枚の検査レポートを掲げ、申し訳なさそうに言った。「すみません、取り違えていました。ご主人は軽傷です。緊急処置が必要なのは、別の『緒方さん』でして。 さっきの10台玉突き事故で、現場が混乱していましてね」
「……そうですか」 星奈は短く答え、立ち去ろうとした。その瞬間、慎也と視線がぶつかる。彼の瞳は闇のように翳り、感情が読み取れなかった。
あまりに久しぶりの再会で、空気が気まずく張り詰める。
星奈はバッグの持ち手をギュッと握りしめた。
沈黙を破ったのは慎也だった。彼は鼻で笑って言った。、「ハッ、俺が死ぬって聞いて、やっと来る気になったか。 生きててガッカリしただろ?」
「私が来ようが来まいが、何が違うの?」 星奈は淡々と答え、視線を初実の方へ流した。
初実は申し訳なさそうに星奈を見つめた。「星奈姉さん、ごめんなさい。全部私のせいで…… 慎也が送ってくれなきゃ、こんなことには……雨の日って事故が起きやすいし」
口では謝っているが、星奈を見るその目は完全に勝ち誇っていた。“愛されている側”の余裕そのものだ。
星奈は視線を逸らし、彼女の言葉には応じず、そのまま踵を返した。
そんな安っぽいマウントで傷ついていたのは、慎也を愛していたからだ。関係を諦めたくなかったからだ。
今や離婚モードのゲージはMAX寸前。初実との腹黒い茶番に付き合う気なんて、もうない。
「望月星奈!」不意に慎也が呼び止めた。
だが星奈は足を止めず、むしろ早足で出口へ向かった。
慎也はその背中を見て目を細め、瞳に冷ややかな光を宿した。(いつからだ?こいつが俺をここまでないがしろにするようになったのは。)
「慎也……」初実が彼の腕を揺する。
声が小さすぎたのか、慎也は完全に無視して立ち上がった。
初実の目が瞬時に赤くなり、声を張り上げる。「慎也!」
慎也はようやく振り返り、心ここにあらずという様子で初実の頭を軽く撫でた。「俺は帰る。お前は仕事に行け」
それだけ言うと、初実の返事も待たずに、彼は出口へ向かって走り出した。
残された初実はその場に立ち尽くし、慎也の背中を睨みつける。その目には、隠しきれない恨みの色が滲んでいた。
救急外来のロビーを出ると、ちょうど星奈が車に乗り込もうとしているところだった。慎也はほっと息をつく。
大股で星奈に追いつき、言った。「一緒に帰るぞ」
星奈は怒りを押し殺し、冷たく返す。「方向が違います」
慎也は当然の口調で告げた。「俺の車はもう廃車だ。乗せていけ」
ーーなるほど。慎也が追いかけてきたのは、単に運転手が欲しかっただけか。
星奈が口を開く前に、彼は続けた。「月見荘に戻る」
星奈は感情のない笑顔を浮かべた。「それはそれは。1年以上ぶりですね、緒方社長が家に帰ってくるなんて」
ふと顔を上げると、視界の端に人影が映った。病院の入り口の階段に立ち、初実がじっと2人を見下ろしている。
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