
元夫に別れを告げた後、高飛車な御曹司と人生を重ねる
章 3
荷物一つ持たず、森川清緒は黒田家を飛び出した。
背後から、使用人たちのひそひそと囁き交わす声が聞こえてくる。
「けっ、離婚だなんて大見得切って、結局は手ぶらじゃない。 じらし作戦のつもりでしょうけど、芝居を打つならもっとうまくやりなさいよ」
「全くだ。 気取ってはいるけど、所詮は坊ちゃんのお金が目当てで嫁いできたんでしょ?聞きましたよ、これだけ長くいて、坊ちゃんとは一度も夜を共にしていないって」 「寝てなくて正解よ。
あんな腹黒い女、玄也坊ちゃんにはふさわしくないわ。 でも賭けてもいい、あの女、絶対に離婚なんてしないわよ」 「私もそう思うわ。
産婦人科の主任なんて肩書き、月給がいくらになるっていうの。 どうせ見栄を張っているだけで、そのうち仕事を辞めて和子お嬢様の世話係に逆戻りよ」
「口先だけよ。 本当に離婚する気があるなら、やってみせろって話だわ」
「……」
嘲りと皮肉に満ちた言葉は、清緒の背中が遠ざかるにつれて、薄い空気の中へと溶けていった。
長引く高熱が体力を奪い、彼女の状態は最悪だった。
長年医者を務めてきた経験から、自分の体が限界に達していることは痛いほどわかっている。
彼女はふらつく体をどうにか支え、道端でタクシーを待った。
ふと。
一陣の風が巻き起こり、冷気をまとったセダンが、すぐ脇をかすめて走り去った。
鈍い反応で一歩後ずさった清緒が顔を上げると、黒いセダンの中に、黒田玄也の氷のように鋭い横顔が一瞬にして目の前を過ぎ去っていく。
そして無情にも窓がゆっくりと上がり、彼の姿は彼女の視界から完全に遮断された。
しばし呆然と立ち尽くした後、彼女の口元に、心が砕けるような自嘲の笑みが浮かんだ。
三年間、誠心誠意を尽くした結婚生活の果てが、仇のような仕打ちとは。 なんて、惨めな失敗だろう。
車が角を曲がる時。
運転手はバックミラー越しに、よろめく女性の姿を一瞥した。 「坊ちゃん、奥様は相当具合が悪そうでございます。 万が一、家の前で倒れでもしたらニュース沙汰になりかねません。 世間体が悪うございます」
閉じていた目を、玄也はゆっくりと開いた。 その双眸は、氷のように冷え切っていた。 「あいつは和子の子を流産させた。 その罪は、今すぐ死んだとしても償いきれるものじゃない」
運転手は玄也に見えない角度で口の端を吊り上げ、落ち着き払った声で「かしこまりました」と答えた。
次の瞬間、車は淀みなく交通の流れに合流した。
灼けつくような炎天下、清緒の体は頼りなくよろめき、唇は乾ききってひび割れていた。
必死に意識を繋ぎ止めようと頭を振るが、かえって眩暈はひどくなり、足元がおぼつかなくなる。
一瞬、心臓が暴れるように脈打ち、制御を失った。 清緒はとっさに胸を押さえたが、息が詰まり、浅い喘ぎが漏れた。
顔を上げた瞬間、世界がぐらりと回転する。
ふと、自分の体が羽のように軽くなるのを感じた。 一枚の木の葉が、梢からひらひらと舞い落ちるのが見える。 霞んでいく視界のなか、彼女は彫りの深い、見覚えのある男の顔を捉えた。
見覚えがある。
彼女は懸命に目を開けようとしたが、体はもう限界だった。 意識が途切れるその瞬間、男が自分を呼ぶ声が、確かに耳に届いた。 「清緒!」
小山晴子が報せを受けて病院に駆けつけた時、森川清緒はすでに意識を失っていた。
その顔は紙のように真っ白で、体は無意識に震え、額からは冷や汗がとめどなく流れ落ちる。
まるで死の淵を彷徨っているかのようだった。
産婦人科の同僚たちが、心配そうに彼女の周りに集まっている。
院長は、ベッドに横たわる生気のない森川清緒を見て、心を痛めると同時に怒りを露わにした。 「あれだけの輸血をこなし、大手術をやり遂げた直後だというのに……病身でタクシーに乗るしかなく、あげく病院の前で倒れるとは!黒田家もあまりに非道すぎる!」
看護師長は怒りで張り裂けんばかりに、宮沢和子の病室がある方を指差して怒鳴った。 「黒田の連中、恥を知りなさい!うちの主任をここまでいじめておいて、金があれば何でも許されるとでも思ってるの!?」
科の同僚たちは憤りを露わにしながら、清緒を病室へと運び込んだ。
清緒の高熱は一晩中下がることがなかった。 消耗しきった体で目を覚ました時、彼女は力なくベッドの頭にもたれかかっていた。
虚ろな瞳は宙を彷徨い、昨日起きた出来事が脳裏に焼き付いて離れない。
記憶を辿るうちに、じわりと目頭が熱くなり、赤く染まっていく。 三年の青春。 幾度となく、静かな夜に自分を温めてくれたあの「お兄ちゃん」が、大人になった今、こんなにも自分を深く傷つけるなんて。
清緒は膝を抱え込むと、鼻をすすり、静かに涙をこぼした。
真心さえ尽くせば、真心で返してもらえると信じていた。
自分が十分に努力し、従順でありさえすれば、氷山も溶かせると信じていた。
ああ、女の思い込みとは、これほどまでに致命的なものだったのか。
周りが自分を愚かだと笑うのも無理はない。 今となっては、愚かだと言われることすら、「愚か」という言葉への冒涜に思えた。
再び目を覚ますと、窓の外はすでに白んでいた。
全身を濡らす冷や汗が不快だった。 彼女が服を着替えた後で、科の同僚たちと小山晴子が一緒に入ってきた。
晴子の手には、温かい朝食が握られている。
「清緒、目が覚めた?あー、よかった……!もう、死ぬほど心配したんだから!死体を引き取りに来ることになるかと思ったよ!」
清緒は彼女の大げさな物言いに、淡く笑った。 「もう大丈夫よ」
「主任、安心して休んでください。 ここ数日は私たちが交代で病棟を診ますから。 何も考えなくていいです、全部私たちがカバーしますので」同じ科の小野さんが、頼もしく言った。
仁生病院の心臓外科は、清緒が着任してから、あらゆる面で業務レベルが飛躍的に向上した。 その後、宮沢和子の妊娠を機に、清緒は産婦人科に異動して主任となった。
落下傘人事に、特にベテランの医師たちは快く思っていなかった。
しかし、わずか数回の手術を見学するうちに誰もが心から感服し、森川清緒の着任によって、仁生病院の産婦人科はわずか数ヶ月で、国内屈指の手術成功率九十九パーセントを誇るまでになった。
誰もが、彼女を深く尊敬している。
小野さんの言葉に、同僚たちは口々に頷き、同意を示した。
清緒は頷き、皆をそれぞれの持ち場に戻るよう促した。
ベッドのそばに残った小山晴子に、彼女は言った。 「私のスマホ、どこ?」
晴子は途端に身構えた。 「清緒、まさかまた黒田玄也に電話する気?冷たくあしらわれるだけだって、わかってるでしょ?」
晴子は、玄也の車が清緒のすぐそばを猛スピードで走り去るのを目撃した時、怒りでその場で爆発しそうになったのだ。
清緒が玄也の悪口を言われるのを嫌がるのを知っている晴子は、ぶつぶつと呟く。 「すがりつくにしても、体調が戻ってからにしなよ。 じゃないと、『歩くRhマイナス血液バンク』が務まらないでしょ」
Rhマイナス血液バンク。
その言葉に、清緒は眉をひそめ、自嘲気味に笑った。
その形容は、否定しようにも、あまりに的を射ている。
「違うわよ。 ネットのニュースを確認したいだけ」
宮沢和子のいつもの手口からして、お腹の子が駄目になったのだから、何をおいてもまず悲劇のヒロインを演じるに決まっている。
そして、黒田家の前で、しおらしく泣きながら自分の不手際だと訴えるだろう。
薬に細工をしたと彼女が言ったのなら、黒田家の前だけでその話をするはずがない。
かつては姉のように慕ってくれていたはずが、まさか、こんな形で牙を剥かれるとは。
人前では清純な白蓮を演じ、裏では自分を召使いのようにこき使って治療させ、体調が回復するやいなや、この仕打ち。
スマホに溢れるニュースが、森川清緒の推測を裏付けていた。
「見る価値なんてないってば」晴子は心底うんざりしている。 「前から言ってたでしょ、あの宮沢和子はロクな女じゃない、腹黒いって。 清緒みたいに裏表のない性格じゃ勝ち目ないよ。 あの時『根はいい子だ』なんて言ってたけど、見てみなよ、今じゃネットで『性悪女』扱いされてるのは清緒の方だよ!」
「あの黒田玄也も、頭空っぽなんじゃないの!社長だか何だか知らないけど、あんな知能で社長が務まるなら、誰でもできるわよ!」
清緒は答えず、うつむいてスマホの画面を見つめていた。
ネットに溢れるニュースは、黒田玄也にも黒田家にも一切触れず、その矛先はすべて清緒と仁生病院に向けられていた。
医者にとって、最も重要なのは名声だ。
清緒は自分の名誉はどうでもいいが、仁生病院の名声まで汚されるのは看過できない。
宮沢和子のこの手は、釜底抽薪。 陰険極まりない。
だが、和子は知らない。 自分には彼女を生かす腕があるように、その命を絶つ力もあることを。 そして、先天性の心臓病は、少し体調がいいからといって完治するほど甘くはないということを。
この病気は長期的なケアが必要なのだ。 そうでなければ、この世に心臓病で亡くなる患者などいるはずがない。
自分の一途な想いの滑稽さにも、和子の無知さにも、清緒は乾いた笑いを禁じ得なかった。
傍らに立っていた晴子は、清緒のかすかな笑みを見て、ぞっと総毛立った。 彼女は戸惑って言った。 「し、師匠……?あ、あの、どうされたんですか… …?」
「ショックを受けたとしても、大丈夫ですって。 これから挽回すればいいんですから。 でもその笑い方、正直ちょっと怖いです… …!」
「はい、師匠、私が悪かったです。 怒らないでください。 もう黒田玄也をクズ男なんて言いませんし、宮沢和子をぶりっ子の性悪女とも言いませんから、ね?」
清緒が顔を上げると、晴子のおずおずとした様子が目に入り、自分が以前玄也を庇っていたせいで彼女に要らぬ誤解をさせているのだと悟る。
乾ききった喉は、少し声を出すだけでナイフで抉るように痛んだ。 それでも清緒は、ゆっくりと、しかしはっきりと告げた。 「私……あなたの言う通りよ」
そう言い残すと、清緒は手元の水を一気に飲み干し、再びベッドに体を横たえた。
雷に打たれたような衝撃を受け、小山晴子はその場に立ち尽くした。
師匠――これって、性格が変わった?
自分が黒田玄也を罵ったのに、師匠が褒めてくれた? ! !
晴子は素早く首を伸ばして窓の外を見た。
今日の太陽は……ちゃんと東から昇ってるわよね。
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