こころのけしき の小説カバー

こころのけしき

9.6 / 10.0
現代を生きる人々の繊細な心情を鮮やかに切り取った短編集『こころのけしき』。本作は、日常の何気ない瞬間に揺れ動く感情の機微を丁寧に描くヒューマンドラマのmodern novelです。読者の心に深く寄り添う物語は、まさにwebnovelならではの没入感を提供します。多様な人生の断片を綴った魅力的なshort stories romanceや人間模様を、今すぐオンラインで体験してください。
「こころのけしき」のあらすじ
日常のふとした瞬間に揺れ動く、人々の繊細な心情を鮮やかに切り取った短編小説集です。本作は、人生の岐路に立つ者や、日々の生活の中で小さな幸せを見出す者たちの姿を丁寧に描き出したヒューマンドラマとなっています。季節の移ろいとともに変化していく、まるで万華鏡のような心の模様を、一編一編の物語に深く刻み込みました。喜び、悲しみ、葛藤、そして微かな希望。誰の心の中にも存在する、言葉にできない複雑な感情の風景を、情緒豊かな筆致で綴ります。それぞれの物語に登場する人物たちは、何気ない出来事を通じて己の内面と向き合い、新たな一歩を踏み出していきます。読者の心に寄り添い、静かな感動を呼び起こすような珠玉のエピソードを多数収録しました。読み進めるうちに、あなた自身の心の中にある忘れかけていた景色が、きっと鮮明に蘇ってくるはずです。現代を生きるすべての人に贈る、優しさと慈しみに満ちた物語の数々を、ぜひ最後までじっくりとお楽しみください。
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こころのけしき 第1章

太陽が向こうの山陰に姿を消そうとしていた時、時折、がたんと揺れる電車の中で一人の青年が、気難しそうな顔をして静かに座っていた。ゆらゆらと走る電車の中は仕事帰りの人の群れでそれなりに埋まっている。

しかし、この青年にとってはこれくらいの人混みはどうもない。小さく体を畳んで、他人の邪魔にならないようにしている。

電車がカーブに差し掛かり、少し揺れると、青年の方に中年小太りの少し頭の禿げた男がよろめく。

中年男が「おっと、すいません」と頭を下げた。青年も頭を下げる。

そうしていると、電車は速度を緩めながら、するする、がたんとホームに吸い込まれていく。電車が止まり、アナウンスが流れるとドアが開く、青年はそっと立つと、人の間を縫うようにするすると出ていった。

電車とホームの隙間を跨ぎ、ホームに降り立つ。青年はすこし歩くと立ち止まって一旦息を吐いてからゆっくりと、優しくそよぐ風を吸い込んだ。

この青年、実は故郷に帰ってきたのである。およそ3年、青年にとってはそこまで短い月日ではあるまいが、実家に全く頼らず生きてきた。もっと言えば、母からの心配の連絡も一切取らずであった。ある人から言わせれば、親心子知らずのバカ息子である、とは少し言いすぎな気もする。

では、そんなバカ息子がなぜ突然、しかも連絡もなしに帰ってくるのか。それは、仕事仲間のパートのおばさんに「たまには帰って顔でも見せんと、いつ居なくなるかも分かりませんよ」と窘められたからである。

青年の、帰れない、には理由があった。

青年の父は町工場を経営して生計を立てていた。それが災いしてしまうのも人間の不思議なところである。父は小さい頃からしつこく「跡を継ぐんだ」と言ってきた。そして、息子に出来るだけいい状態でバトンを渡せるように、それが実現するように、仕事に精を出して働き、規模は小さいなりに評判も業績もすこぶる良い状態にしていたのである。

しかし、青年はただ跡を継ぐのは潔しとせず、他の会社で武者修行をすることに決めたのである。父はこれに反対し、ついに折り合いつかず激しい口論となった。とうとう、青年は飛び出すように大都会の会社に出ていった次第である。

そんな青年の複雑な感情も、故郷の風は優しくほぐす。青年はホームに取り付けてある椅子にゆっくりと腰を下ろす。少し前かがみになって、少し開いた両膝の上に両肘を置き、じっと唇を締めて暫く地面を見つめていた。

時折、前を向くと、アナウンスが流れる。電車がホームに滑り込む。止まる。また人が降りてくる。乗っていく。電車ががたんと一息吐いて発車する。また下を向く。そんなことを繰り返し見て、すっかり夜になってから、とうとうゆっくりと立ち上がって、ホームの下へ、とぼとぼ歩いていった。

青年の実家は駅から20分程歩いた所にある。まっすぐ伸びた大通りを歩いて、カーブしているところで交差する道に入る。その住宅街に続く道を登ったり降りたりもしながら少し歩く。我々にとっては、何の変哲もない、住宅街の一画でも、坂の多い面倒な道路でも、青年にとっては子どもの頃よく遊んだ場所で、青春時代を過ごした場所である。青年は少し歩いては立ち止まり、立ち止まりしながらまた歩いていく。

そうこうしつつ、だんだんと実家に近づくと、青年の歩調もぎこちなくなる。綺麗にカットした短い髪の毛を気にするそぶりをしながら、どうやら足が重たいらしい。

それでも、歩けば目的地には着く。青年は実家の前に着いてしまった。こじんまりとした家だ。兄弟も居ないので、これくらいの家が丁度いいと、父は古くなったこの家を手放すこともなく、そのままにしていた。

そんなことを青年は思い返しながら、ドアの前で突っ立っていると、玄関に誰かがやって来て中から開き戸を滑らせた。

「まあ……あんた何やってんの」

口に手を当て、信じられない顔をする、白髪混じりの髪にパーマをかけ、小太りで、背の低い女性。そう、青年の母だ。

「いや……なんとなく……」

「ちょっと痩せたかい。ちゃんと食べてるのかい。そうだ、さっき夕飯の支度したんだから、ともかく入んな。」

最初、青年の顔をジロジロ見て心配そうな顔をしたが、一転、笑顔になって玄関に招き入れようと手招きする母。

青年はその仕草を見ると、少し強ばって、身じろぎした。しかし、それでも止めない手招きに足を緩める。

すると、奥の襖が開いて、とうとうしかめ面をした、前頭部の禿げ上がった痩せ男が姿を見せる。緩めた足は硬直する。男は青年を見るなり、顔をさらに強ばらせ、青年の母を見る。

「あら、お父さん」

「ちょっくら出かけてくる」

「そう、気をつけてね」

母と父の間で短く飛んだやり取りは青年の頭上を超えた。

目も合わせずに下を向いて、青年の父は青年の横をすり抜け、夜の薄明かりへと進んでいく。

「嬉しそうだったわね」

母は言うと、とっとと上がんなさいと言って台所に向かったようだ。

青年は居間で座布団に座りテレビを見ている。背の低い円卓の周りを座布団が3つ、囲んでいる。それにしても、夕飯の準備が終わっているはずなのに遅いと感じる。退屈そうにテレビを見ながらも、心は紐で締め付けられている。台所からの開き戸が開いて、料理が運ばれてくる。

「ちょっと待たせちゃったわね」

「いんや、ありがとう」

お盆に乗った、一人分の料理を見て、残してはいけないなと思った。

母は青年の右隣に座った。

「それにしても、手紙ぐらいよこしなさいよ。いくら忙しいとはいえ、心配してたのよ。お父さんもああしてるけど、心配で時々寝言でおまえの名前を呼んで、うるさいったらありゃしなかったわよ」

「へえ」

青年にとってその事実は意外だったらしく。物珍しそうに母を見る。母はニヤリと、そうよと言って笑った。肉じゃがに手をつける。温かく、舌にあたり、喉を通って、腹の奥底から熱が伝わるような味をしていた。そして、何だか、胸の奥がこそばゆくなる感触に見舞われて、青年は下を向いた。

仕事の話やら、近所の話やら、生活のことを事細かに次々と聞いたり話したりする母に、料理に話にてんやわんやしながら応える青年。

「それにしても、元気そうでよかったわ、食べ終わったら食器持ってきて、お風呂が沸いてるから入んなさい」

そう言って、台所へ向かう母。

一人居間でご飯を頬張る時に1滴の透明な液体が、白飯の中に染み込んでいった。

実家の久々の風呂に入って、さっぱりした青年が玄関に繋がる廊下に出た時、物音を立てないように静かに帰ってきた風の父と遭遇した。父が顔を上げた瞬間に、青年と目が合って、両者視線を下げる。

「と……都会はあまりいい所じゃないだろう」

「いや、そうでもないよ。悪いところばかりじゃない」

「そ……そうか」

それだけ交わして、父はそそくさと寝室に入っていった。

翌日、早朝に目が覚めて、仕方なく散歩に出る。故郷の匂いというものを感じながら、青年の心は解されていくように都会の緊張は蔭を潜めた。南には山が見える。山の稜線を眩く彩る、早朝の太陽光がまた、古い記憶を呼んだ。よく、父と朝の散歩をした。その時間は、確かに好きだったと青年は思う。

父に話したことや、父から聞いたことが様々な情景と共に思い返されているようで、下を向く青年の顔は緩んでいた。

「もう行っちゃうのかい?」

母は寂しそうに言う。うん、と青年が返した。

「たまには連絡よこすのよ、体に気をつけなさいよ。いい人も見つけなさいね」

これも、うん。

そして、黙りこくって下を向いた、少し母より下がったところの男は、意を決したように、前に進み出て、青年の目を見つめた。

「……しっかりな」

そう言って、後ろに隠していた、紙袋を渡した。

貰っていいのかわからない、と青年は躊躇したが、顎で促す父を見て、手に取った。

ありがとう、と父に礼をした。

帰路につく電車の中で、紙袋を開け中を見ると、立派な黒の箱に包まれた重たそうな時計と、手紙が入っていた。

恐る恐るの手つきで手紙を開けると、「あの時はすまんかった。達者で。またいつでも帰ってこい 父」と書いてあった。

持て余した感情にどう落とし前をつけるのか、腹の底からのうめき声と泣きじゃくる自分を抑えて、手紙でもと思うばかりだった。

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