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啼かない金糸雀(カナリア) の小説カバー

啼かない金糸雀(カナリア)

橘蓮は学生時代に負った深い心の傷が原因で、他人と愛を育むことを拒絶し続けていた。独身を貫く覚悟を決めつつも、実家で肩身の狭い生活を送る彼は、両親の強い要望に抗えずお見合いの席に立つ日々を過ごしている。蓮の本音は、親の心配を理解しながらも恋愛を避けたいというものだった。そのため、これまであらゆる策を講じては相手側から断られるよう仕向け、破談を繰り返してきたのである。しかし、新たに舞い込んだ縁談が彼の平穏な計画を根底から覆すことになる。いつものように相手に嫌われ、円満に破談を成立させようと目論んでいた蓮。ところが、お見合い当日の会場に遅れて姿を現した見合い相手、伏見櫻子の姿はあまりにも異様だった。彼女は全身を鮮血に染め、その手には切断された鶏の頭を握りしめていたのだ。凄惨な光景とともに現れた謎めいた少女との出会いが、逃げ続けてきた蓮の運命を予期せぬ方向へと狂わせ始める。現代を舞台に、トラウマを抱えた青年と異様な少女が織りなす、不可解で危うい関係性を描いたロマンス・ミステリー。
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その目は、まるで何モノも映していないかのように虚ろに見えた。少女が着ている真っ白なワンピースと床に映える、真っ赤な血。帽子から覗く艶やかな黒髪は、日本人形のように長かった。叔母だという女性は興奮しているのか、何度も金切り声をあげて少女を問い詰めている。しかし少女は一言も言葉を発さない。ただ虚ろな瞳で、ここではないどこか遠くのものを見つめているように見えた。

 すぐに帰らない息子に業を煮やしたのか、騒ぎが気になってなのか、両親がいつの間にか背後に控えていたようで、言葉にならない声で短く叫んだ母親の声でようやく後ろを振り返ると、顔面蒼白の母親を支えるようにして父親も茫然と立ち尽くしていた。二人とも何と声をかけていいのか解らないのか、いや、現実に起きている非現実のような出来事に、二人は言葉を失っているのだろう。

 叔母だという女性が、すぐ後ろにお見合い相手とその両親が居ることに気づいたのは、少女の視線がこちらを向いていたからだ。本当にこちらを見ているのかさえも怪しいが、虚ろに見える瞳の中で一瞬、確かに視線が合った気がした。叔母だという女性は、慌てて少女の左腕を掴むと、低姿勢で謝りながら去っていく。「お詫びは日を改めて…」とか何とか言いながら去っていく後ろ姿を見送りながら、両親は非現実的な時間を終えることとなった。

 帰宅後、母は過去最高にぶちぶちと悪態をついていた。

「伏見といえば、一代財閥ではあるけど、由緒正しき家柄だって聞いていたのにっ…ああっもう! 思い出しただけでも鳥肌が立つ光景だったわ。あの叔母だっていう女性も本当に叔母だかどうか、怪しいところだけれど…それ以上にあの子のあの…ああ、思い出したくもないわね。とにかく! お見合いには結局ならなかったけど、今日は本当に最悪なお見合いだったわ。お見合いにならなくて良かったわね。お父さんも、取引先の社長さんの紹介だから仕方ないけど、これからはお相手がどんな方なのか、事前にもっと調べておく必要があるわね。とにかく蓮、今日のことは忘れましょ。あなたには似合いの相手を何としても! 見つけてあげるから。今日のはなしよ、なし!」

 言いたいことだけ言って去っていく母親の背中を見送りながら、俺は今日のことを思い出していた。正確にいえば、少女のことをだ…。なぜ、彼女はあんなことをしたのか。ただお見合いを断るためだけなら、すっぽかせばいいだけの話だ。わざわざ血だらけの服で、切断された鶏の頭を持つという衝撃的な姿でお見合い会場に現れるなんて、彼女にとってもリスキーだ。由緒正しき家柄の娘なら尚更、そんなリスクの高いことをする理由が…

「あ…」

 一つだけあった。確かなことではないが、思い当たることではある。しかしどちらにしても、彼女にとって、それはハイリスクノーリターンでしかない気がした。でも…それでももし、彼女が俺と同じつもりでこの見合いに臨んでいるのだとしたら、理由は一つ。

「相手に断らせるため…?」

 口に出してみたものの、確信はもてなかった。それに気になることがもう一つある。なぜ彼女は一言も話そうとしなかったのか…だ。それに加えてあの瞳…まるで何も映していないかのような虚ろな眼差しも気になった。

「…蓮、今日はすまなかった」

 物思いにふけっていると、いつの間にかリビングの入り口に父親が立っていた。取引先の社長さんからの紹介とはいえ、母親の様子に自分の責任を感じているのか、少し落ち込んで見えた。

「いや、気にしてない。父さんのせいじゃないんだから、気にしなくていいよ」

「彼女は…いや、櫻子さんは可哀想な人だ。ご両親を目の前で亡くしたトラウマで、今も心を閉ざしているそうだ。声を出せないのも、そのせいだと聞いている。今日はあんなことになってしまったが、本当は心根の優しい、気立てのいいお嬢さんだと、父さんは春日部社長から聞いていたんだ…」

 少しだけ躊躇いながら話す父親の言葉に、俺は驚くのと同時に親近感を覚えていた。親近感というと少し語弊があるのかもしれないが、トラウマを抱えながら生きているという共通項が、そうさせた。

「そう…。母さんはいつものことだし、さっきも言ったけど俺は気にしてない。今日はあんなことになったけど、父さんが信頼してる社長さんが話したのなら、俺…もう一度会ってくるよ。あ、勿論母さんには内緒で…だけど」

 母親に内緒だという俺に、父親は「解った」と短く頷いた。

 俺とは違う、計り知れない心の傷を負って、それでもトラウマを抱えて生きていくという決心をした彼女。何も映さないあの瞳が、心を閉ざし声を失った結果なのだとしたら、そしてあの衝撃的な出会いが、見合いを断るために計画されたものだとしたら、同じ立場の人間として、俺は彼女に興味を抱かずにはいられなかった。

 翌朝、少しだけ早起きした俺は、彼女が住んでいるという家の場所が書かれた紙を、父親からこっそりと受け取って、適当に理由をつけて出かけた。俺の住む場所からは、電車を乗り継いで1時間弱かかった。駅からバスに乗り換えて、高級住宅街の中を通り抜けた先にある高台のバス停で降りて、小高い丘を登っていくと、1軒の白い家が見えた。門をくぐり家の前に立つと、歩いている時に見えた家とは比べ物にならないくらい、でかかった。

 緊張のあまり、チャイムを鳴らす手を止める。ひとつ、大きく息を吐いて新鮮な空気を吸うと、甘い香りが鼻腔を通り抜けていく。緊張で気づかなかったけれど、家の周りのあちこちに、色とりどりのたくさんの花が植えられていた。その中に見覚えのある花が映り込む。思いがけず甘い香りの正体を知り、俺のしまい込んだはずの記憶が呼び起こされる。頭を掠める女性が手にした花に、胸が酷く疼く。もう忘れたいのに、忘れてしまいたいのに…まだ俺の心は囚われているのか。もうあれから二十余年も経っているのに、まだ俺は彼女を待っているというのか。まだ会いたいと思っているのか…先に別れを告げて居なくなったのは彼女なのに。裏切られたと憎んだはずの心は、まだ彼女を愛しているとでもいうのか…。

「大丈夫ですか…?」

 甘い香りを漂わせる花に心を奪われ、疼きが止まらない胸を掴んだまま動けないでいる俺に、背後から凛と響く高く澄んだ声がかけられる。ハッと現実に呼び戻された俺は、声がした方を振り返る。そこにはあの日と同じ、白いワンピース姿の少女が居た…。

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