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啼かない金糸雀(カナリア) の小説カバー

啼かない金糸雀(カナリア)

橘蓮は学生時代に負った深い心の傷が原因で、他人と愛を育むことを拒絶し続けていた。独身を貫く覚悟を決めつつも、実家で肩身の狭い生活を送る彼は、両親の強い要望に抗えずお見合いの席に立つ日々を過ごしている。蓮の本音は、親の心配を理解しながらも恋愛を避けたいというものだった。そのため、これまであらゆる策を講じては相手側から断られるよう仕向け、破談を繰り返してきたのである。しかし、新たに舞い込んだ縁談が彼の平穏な計画を根底から覆すことになる。いつものように相手に嫌われ、円満に破談を成立させようと目論んでいた蓮。ところが、お見合い当日の会場に遅れて姿を現した見合い相手、伏見櫻子の姿はあまりにも異様だった。彼女は全身を鮮血に染め、その手には切断された鶏の頭を握りしめていたのだ。凄惨な光景とともに現れた謎めいた少女との出会いが、逃げ続けてきた蓮の運命を予期せぬ方向へと狂わせ始める。現代を舞台に、トラウマを抱えた青年と異様な少女が織りなす、不可解で危うい関係性を描いたロマンス・ミステリー。
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あの日と同じ少女がそこに居たと思った。でも同じはずなのに、今俺が目にしている少女はまったくの別人のように感じられた。あの日はどこか虚ろで遠くを見ているような眼差しをしていたのに、目の前の少女は凛とした姿で立っている。そしてその目は、まっすぐ俺に向けられていた。

 俺は自分の胸が疼き苦しんでいたこともさっぱり忘れて、彼女の姿に目を奪われていた。声をかけられたのに、それに対して答えを返すことも出来ず、ただぼうっと立ち尽くしてしまった。彼女は何も声を発さない俺を不思議に思って二、三歩足を進めたが、すぐに何かに気づいたようで足を止めた。そして何か言葉を発するかのように口を開こうとして、途中で噤んでしまった。俺は一連の彼女の動作を見つめながら、ふとした違和感に気づく。

 父親は彼女について何と言ったか…そうだ。彼女は確か心を閉ざしたまま、声を出せないでいると話していた。だけど俺の聞き間違いでなければ、彼女は俺に大丈夫かと声をかけたはずだ。

 自分が実際に目にした彼女と父親から聞いていた彼女の姿が、今目の前にいる姿とあまりに違い過ぎて、頭の中でどうしても結びつかない。本当に彼女は「あの日の少女」と同一人物なんだろうか…。

「あの…俺、」

 勢いで口を開いてみたものの、何と声をかければいいのか解らない。頭の中は既に混乱気味で、正常に思考が働いてはくれないのだ。結局口を開いたはいいが、次の言葉を言い淀んでいる内に目の前の彼女がくるりと背を向ける。このまま行ってしまう…と焦りに支配されそうになった時、彼女は白い家の扉を開いて中に入ると、後ろを振り返ってこちらに右手を差し出した。声には出さなかったが、まるで「どうぞ」と招かれているようだったので、俺は何も言わずに彼女に従った。

 彼女が開けてくれた扉に手をかけ足を踏み入れると、すぐ近くに立っていた彼女が首を垂れる。外から入ってくるふわりとした風に、艶やかな黒髪が俺に向かってサラサラと落ちてくる。予想外の近さにどきりと胸が音を立てたように、鼓動を速く打つ。視線をどこに向ければいいのか解らなくて俯くと、彼女の髪からか彼女自身からか、甘い香りが漂ってきた。さっき俺を苦しめた花の香りとは違う、甘いだけじゃなく、それは柑橘系の爽やかな香りだった。

 パタンと音が背後で聞こえた直後、香りもすぐに去っていったことに気づき顔を上げると、彼女の姿はもう近くになかった。緊張で手に汗握る体験が終わったことに安堵の溜息をついていると、視線の少し先に彼女の姿を捉えた。背後に視線を向ければ、先程まで開いていた扉が閉まっていた。彼女のあの行動は、扉を閉めたかっただけなのだと知る。あんなにドキドキしていた自分を気恥ずかしく思いながら、なぜそこまで焦って閉める必要があったのだろうか、という疑問も沸き起こった。

「どうぞ、入ってください」

 彼女について考えていると、今度ははっきりと高く澄んだ声が聞こえる。声がした方に視線を向けると、少し先で待つ彼女が俺を見ていた。やはり外で聞いた声は、間違いなく彼女のものだった。

 外観は真っ白で大きな家だったが、入ってみると中は普通だった。母親から財閥と聞かされていたせいで、テレビでよく見るような金持ちの家を想像していたところがあったけど、特別煌びやかな調度品がおいているわけでも、高価な絵が壁にかかっているわけでもないし、廊下にも通された部屋にもシャンデリアが煌々と光り輝いているわけでもなかった。俺が住んでいる家と、どこも変わらないように見える。

「珍しい物でもありましたか」

 明らかにキョロキョロと見回していた俺に、彼女の凛とした声がかかる。人様の家を不躾に見回しすぎてしまった行為を恥じながら、謝罪しようと彼女に向き直ると、彼女は哀しそうに微笑んでいた。いや、正確にはそう見えた…だ。どこか泣きそうなのを我慢しているような笑みに、俺は自分の恥じた行為を謝罪するのも一瞬忘れて、彼女を見つめてしまっていた。

 通された部屋には、三人掛けで十分なくらいの机があった。窓にはレースのカーテンがかかっていて、そこからは庭が見渡せるようになっていた。彼女は俺に椅子へ座るように促し、部屋の奥へ消えていく。しばらくして透明な茶器を手にした彼女が現れて、座った俺の前で透き通った色のお茶を入れてくれる。真っ白なワンピースの袖から覗く、彼女の白くて細い腕と流れるような所作に魅入っていると、彼女は俺と対面する位置の椅子に腰かけた。

「橘 蓮さんですね。今日はどのようなご用件でいらしたのですか?」

 対面した彼女が俺をまっすぐに見つめて口を開く。その瞳は何の迷いもないように、こちらを見据えている。俺は彼女の口から自分の名前が出たことで、俺があの日の見合い相手だということを、彼女は認識しているのだと確信した。そして同時に先程の疑問が再び浮上した。俺は思い切って聞くことにした。

「あの、不躾に訪ねてきてごめ…あ、いや、すみません。今日の件をお話する前に、その…確認をひとつだけ。声を出せないと聞いていました。それにさっき外で君が俺に声をかけた時、君は俺が見合い相手と気づいて言葉を発するのをやめたくらいなのに、何で俺をこの家に招き入れてくれたのかも解らないし、俺よりもずっと年下に見えるのに、俺よりずっと落ち着いている君が、あんな風に足早に扉を閉めたり、見知らぬ男を家に招き入れて、平然と言葉を発している…考えても解らないことばかりなんだ。不躾に家を眺めたのも君にとって口調が悪いと感じるかもしれないけど、多めにみてやってほしい。それくらいに俺は今、混乱してるんだ」

 思い切って口を開いたら、頭の中をぐるぐるしていた言葉が溢れて止まらなくなった。彼女は一度も口を挟まずに、ただじっとこちらを見つめるだけだったから、途中余計に焦りもあって、自分でも何を話しているのかよく解らなくなったし、自分が今混乱していると正直に告げてしまった。彼女は俺が言葉を全て言い終えると、ゆっくりと口を開いた。

「…私は伏見櫻子です。正直、私も驚いています。庭先で声をかけたのがあなただったことにも、声をかけてしまったことにも悔やんでいるし、この状況をどうすればいいのか…あなたの言葉を借りるなら、私も混乱しているのでしょう。でもはっきりと言えるのは、私が話せることを他に知られるわけにはいかないんです。特に叔母には知られたくない。あなたを家に招き入れたのも、ここで私があなたに正確な説明することで、他言しないように釘を刺すためです。どんなきっかけであれ、偶然の出来事であれ、あなたは私の秘密を知ってしまった。だから私は、あなたに私の秘密をお話しします。あなたは確認したいという名目を果たせる代わりに、その秘密を今日ここで、他言しないと誓ってください。いいですね」

 彼女は俺から一度も目を逸らすことなく、はっきりと自分の目的を告げた。その口調はひとつひとつの言葉がしっかりと聞き取れるくらいゆっくりで穏やかなのに、有無を言わせない強い圧があった。混乱しているという割に淡々と語る彼女に、そして迷いなくこちらを見据える彼女の眼差しに、俺はただ頷くことしか出来なかった…。

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