
全力で、お仕置きの時間です
章 2
電話の向こうでしばらく沈黙が流れたあと、父の心配そうな声が聞こえた。「理奈、前にも言っただろうーー」 「恩知らずの並木慎なんて、どれだけ尽くしても報われない男なんだ」
山崎理奈はかすかに笑みを浮かべたが、その笑顔には苦さしかなかった。「そうね、結局、私が身の程知らずだったのよ」
「もう帰っておいで」父は優しく、けれど痛みを押し殺した声で続けた。 「家で決めた見合い相手は、家柄も人柄も、あの並木慎なんかより百倍もいい。君は山崎家の大事な娘なんだ。愛されない男に心をすり減らす必要はない」
「分かったわ」理奈は小さくうなずいた。 「自分の手で全部終わらせたら、ちゃんと帰る」
翌朝早く、理奈は鏡の前に座り、メイドに乱れた髪をほどかせた。
それから、彼女はシャネルの新作ーー真珠のように輝く白のロングドレスに着替え、細いヒールを鳴らしながら階段を降りていった。
使用人たちはざわつき、こそこそとささやき合う。
「今日のお嬢様、どうしたの? いつもはわざと地味にしてたのに」
「だってそうしないと、並木様が落ち着かないんでしょ」
執事の小森が銀のトレイを抱えて近づき、恐る恐る尋ねた。「お嬢様、今日はご家族に会いに行かれるのですか?」
理奈が本気で着飾るのは、家族に会うときだけだった。
彼女は赤い唇の端を少し上げたが、その目には氷のような冷たさが宿っていた。
「いいえ、 学校に行くの」
……
運城大学。
教室では、いつものように派手な服を着た男女が集まり、大声で笑いながら噂話をしていた。
「聞いたか? 昨日、理奈が誘拐されたって!」
「それだけじゃないらしいよ、服まで全部脱がされて、動画まで撮られたって!」
「うわ、すごい話じゃん。 どうりで今日は慎と一緒じゃないわけだ」
その時、外がざわめき始めた。
口笛が鳴り、男子学生のひとりが叫ぶ。「女神!こっち向いて!」
歓声がどんどん高まっていく。
彼らが思わず振り返ると、 光と影が交錯する廊下の奥から、一人の女性が静かに歩いてくるのが見えた。
真珠色のドレスが彼女の細い腰をなぞるように揺れ、その姿は目に焼き付くような鮮やかさだった。
数秒の沈黙のあと、全員が息をのむ。ーーまさか、あの地味で冴えない山崎理奈だなんて。
彼らは素早く視線を交わし、悪意の笑みを浮かべて彼女を取り囲んだ。
「おや、誘拐されたはずなのに、よく顔を出せたね」
「しかもずいぶん派手じゃない? シャネルのドレスかしら? どこでそんな金を?」
「もしかしてーー」 誰かが下品に笑った。「ああ、分かった!自分でエロ動画でも撮って金稼いだんだろ?それでバレるのが怖くて、誘拐されたって言い訳したんじゃない?」
「そうよ、どう頑張っても慎には釣り合わないくせに!」
「並木様は大富豪の息子よ、あなたなんかと比べるのも失礼」
理奈は鼻で笑った。 「大富豪の息子?」
(あの並木慎のこと? 貧民街出身で、学費すら私が立て替えた人間が?)
(ブランド品は全部私が買った。上流パーティーに潜り込ませてあげたのも私。 それなのに、父と撮った写真を使って"資産家の息子"を名乗ってた詐欺師よ)
一度はその嘘を庇い、彼の哀れなプライドを守ってやった。
けれど今となってはーー吐き気がするだけ。
理奈は冷ややかに睨みつけ、「邪魔よ、どきなさい」と吐き捨てた。
すると、相手の数人が一斉に顔を真っ赤にして怒鳴った。 「何様のつもり!? この恥知らず!」
ちょうどその時、並木慎が人混みの向こうから現れた。
彼は眉をひそめ、教壇前まで歩み寄ると、まるで教師のような顔で理奈を見下ろした。
「理奈、君の家が貧しいのは知っている。でもいくら見栄を張りたくても、そんな動画で金を稼ぐなんて間違ってる。 このドレスだって……君には似合わない」
理奈はゆっくりと視線を上げ、そしてふっと笑った。 「誰が貧しいって? あなたのことを言ってるの?」
教室が一瞬、凍りついたように静まり返った。
誰もが息を呑み、信じられないという顔で理奈を見た。
かつて並木慎の前では息を殺していたあの山崎理奈がーー今、堂々と彼に言い返している。
「慎は"資産家の息子"なんだろ?もし彼が貧しいなら、この世に裕福な人なんていないはずだ!」誰かが焦って叫んだ。
「山崎理奈、頭おかしくなったんじゃない!?」
「うわっ、気持ち悪い!」
「ただの運転手の娘のくせに、並木様がいなければ家族そろって飢えてたくせに!よくそんなこと言えるね!?」
その言葉に、理奈は冷たい笑みを浮かべ、慎をまっすぐに見据えた。「私がーーあなたの家の運転手の娘?」
慎の顔色がさっと変わった。冷え切った声で言う。「話を逸らすな。今すぐその服を脱げ。恥を晒すな!」
理奈は面倒そうに目をそらし、「もし嫌だと言ったら?」と淡々と返す。
すると、今まで慎を持ち上げていた生徒が立ち上がり、彼女に掴みかかった。「この小娘、嫌だって?じゃあ私たちが脱がせてやる!」
数人の手が同時に理奈へと伸びた。
だが、理奈は一歩も引かない。その目には冷たい光が宿っていた。
最初に飛びかかってきたのは、いつも威張り散らしているクラス委員。理奈は退くどころか、逆に踏み込み、左手で相手の腕をはじき飛ばすと、右拳を鋭く振り抜いた。
「ーードン!」
重い音が響き、クラス委員は呻き声も上げられず、後ろへと崩れ落ちた。
その場にいた数人が息を呑み、次の瞬間、怒声を上げて一斉に突っ込んできた。
だが、理奈の動きはまるで幻のように速かった。
すれ違いざま、彼女の足が鋭く横に走り、二人目の脇腹に強烈な一撃を叩き込む。
男は呻きながら床に倒れ込み、息をするのも苦しそうだった。
「な……なんで……理奈が、あんなに強いの!?」 誰かが呆然と声を上げた。
理奈は裾を直しながら、何事もなかったかのように立っていた。
その目は氷のように澄み、全員を順に見回してーー最後に慎を射抜いた。
「……」彼女は静かに笑う。慎はその笑みに、なぜか背筋が冷たくなった。彼は汗をぬぐいながら咳払いをした。「理奈……君は見栄っ張りだな。ドレスを着たいなら着ればいい。 でもーーお金は俺に言えばいいじゃないか。もうあんな方法で稼ぐなよ」
床に倒れた生徒たちはうめき声を上げ、数人は泣きながら慎の足元に這い寄った。
「並木さん、どうか私たちの味方を……!」
「そうだよ!早く理奈を懲らしめてよ!」
「彼女、前はあなたに逆らえなかったでしょ!?」
その言葉を聞いた途端、慎の顔に自信が戻った。
そうだ。山崎理奈なんて、自分の命令ひとつで動く存在に過ぎないーーそう思ったのだ。
「理奈、彼らも悪気があったわけじゃない。 君がこんなに暴れたんだから、ちゃんと謝るべきだ。 ……そうだ、ちょうど昼飯の時間だし、みんなに食事をおごって謝るといい」
そう言い捨てると、慎は理奈の顔も見ずに背を向け、スタスタと歩き出した。
彼の頭の中には、(理奈はどうせ、いつもみたいにすぐ追いかけてくる)という確信があった。
けれどーー理奈は、ただ小さく笑っただけだった。
これまで並木慎は学食を嫌い、 いつも外の高級レストランで食事をしていた。
もちろん、その支払いは毎回彼女だった。
山崎理奈がいなければ、並木慎にはまともな昼食ひとつ払う余裕すらない。
理奈は何も言わず、静かに校門を出た。
それを見た生徒たちは鼻で笑いながら囁く。ーー「やっぱり、あの子は慎に従うのね!」
「そうよ、全部彼の気を引きたいだけだわ」
レストランに着くと、理奈は落ち着いた様子で席に座った。
少し遅れて、慎は西田羽美たちを連れてやってきたが、彼女の隣に座るのは嫌なようだった。
それでも、彼は当然のように理奈のテーブルに置かれたメニューを取り上げ、指で示した。ーー「俺はフォアグラのキャビア添えと、エスカルゴのグラタン、それに黒トリュフのハムとロブスターパスタ。 他のみんなも好きな物を頼めよ」
同級生たちはわざと高い料理ばかりを選び、ひそひそと笑い合った。「これだけ頼んで、あの女、払えるのかしら? 破産でもしたら笑えるわね」
慎も得意げに口角を上げた。
やがて、豪華な料理が次々と運ばれてきて、 クラスメイトたちはもう我慢できないといった顔で、よだれ零れそうにして我先にと箸を突っ込み、むしゃむしゃ頬張った。
理奈は黙って彼らの食事を見つめ、 全員が食べ終わって席を立とうとする頃になって、ゆっくりと手を拭った。
ウェイターが伝票を持ってくると、慎は当然のように彼女を指さした。 ーー「会計は彼女に」
伝票を受け取った理奈は、一瞥もせずにふっと笑った。 「この料理、私は一口も食べていないわ。どうして私が払うの?」
慎は一瞬ぽかんとしたが、すぐ顔を真っ赤にして叫んだ。 「理奈!おごって謝るって言っただろ! 何言ってるんだ!」
「私はたまたまここに食事に来ただけ。誰があなたたちをおごるなんて言ったの?」
慎の顔はみるみる赤くなり、言葉が喉に詰まった。
ウェイターは困惑しながら周囲を見回した。「えっと……どなたがお支払いを?」
慎はポケットを探ったが、中は空っぽだった。
支払いなど、できるはずがない。
同級生たちも伝票を覗き込み、息をのんだ。 ーー金額は、彼らのひと月の生活費よりも高かった。
西田羽美がすぐに甘えた声で近寄った。「ねえ、理奈、払ってよ。普段慎があなたにどれだけお金使ってると思ってるの?」
他の生徒たちも次々に同調する。「そうそう、理奈の生活費は並木様が出してるんでしょ?ここでケチるの?」
「あんなに得してるのに、一食おごるくらいで文句? 本当に貧乏人ね!」
「並木様は運が悪かったわ、あんな女と付き合うなんて!」
その瞬間、理奈は堪えきれずに笑い声を上げた。
なんて滑稽な話だろう。
並木慎ーー学費すら彼女が払い、ブランド物も全部彼女の金で買っていた男が、 自分が"養っていた"と吹聴しているなんて。
「そう? 彼が私にお金を使ったって?じゃあ証拠を出して。 送金記録でも、レシートでも。 どれでもいいわ。 彼が私に一円でも使った証拠を見せてみなさい。 出せないなら、名誉毀損で訴えるわよ」
慎は怒りに震え、両手をテーブルに突き出し、身を乗り出して低い声で怒鳴った。 ーー「山崎理奈!いい加減にしろ! これが最後のチャンスだ!今すぐ払え! さもないともう二度と構わないからな!」
「それでいいわ」 理奈は冷ややかに顔を上げ、はっきりと告げた。 「私たちは終わりよ。 ーー今この瞬間から、あなたとはもう何の関係もない」
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