
婚約破棄された天才女医、冷徹な軍人総帥に溺愛される
章 2
「や、やめて……ください……」
星は、か細く、震える声で懇願した。
わざとらしく体を縮こまらせ、抵抗する意思がないことを示す。
鬼塚は、その怯えた様子を見て、満足そうに喉を鳴らした。
「ハッ、やっぱり女はこうでなくっちゃな」
彼は、星のあまりの無抵抗さに油断しきっていた。
手にした拳銃を無造作に床に置き、星の服に手をかけようと身をかがめる。
その一瞬の隙を、星は見逃さなかった。
(今だ!)
鬼塚が、星の着ていたジャケットの襟を掴み、引き裂こうとした、その瞬間。
星は、袖口に隠し持っていたガラスの破片を、逆手で固く握りしめた。
そして、蓄えていた全ての力を解放し、身を捩りながら体を起こす。
狙うは、鬼塚の剥き出しの太腿。
「しまっ……!」
鬼塚が気づいた時には、もう遅かった。
鋭利なガラスの先端が、分厚いズボンを貫き、その下の大腿動脈に深く突き刺さる。
「ぐあああああっ!」
獣のような絶叫が、廃工場に響き渡った。
動脈から噴き出した鮮血が、星の顔に温かく飛び散る。
鬼塚が、信じられないという顔で自分の足を見下ろし、苦痛に身をよじらせて後ずさった。
星は、その隙に弾かれたように立ち上がった。
振り返らない。
背後で、鬼塚と彼の仲間たちが怒号を上げるのが聞こえたが、構っている暇はなかった。
星は、工場の裏口へと、一心不乱に走った。
腐りかけた木製の扉に、全体重を乗せて体当たりする。
バキッ、という音と共に扉が破れ、星は外の冷たい夜気の中に転がり出た。
そこは、鳥取砂丘の端に広がる防風林だった。
松の木々が、月明かりを遮り、足元は暗く不安定だ。
肺が、燃えるように痛い。
極度の疲労感が、鉛のように体にまとわりつき、星の足を止めようとする。
だが、止まるわけにはいかない。
背後から、パン、パン、と乾いた銃声が連続して響いた。
そのうちの一発が、星のすぐ横の木の幹を抉り、木屑を飛び散らせる。
そして、次の瞬間。
右の脹脛に、焼けた鉄の棒を押し付けられたような、灼熱の衝撃が走った。
「……っ!」
声にならない悲鳴と共に、星の体は前のめりに地面に叩きつけられた。
激痛で、視界が白く点滅する。
足が、言うことを聞かない。
背後から、複数の足音が近づいてくる。
鬼塚が、血を流す足を引きずりながら、鬼の形相で銃口をこちらに向けていた。
「この、クソアマが……!」
死の影が、今度こそ完全に星を覆い尽くした。
もう、逃げられない。
星は、唇を強く噛み締め、決して悲鳴は上げまいと心に誓った。
目を閉じて、最後の瞬間を待つ。
その時だった。
バタバタバタバタッ!
空気を引き裂くような、けたたましいローター音が、夜の静寂を破壊した。
何事かと目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
一機の、漆黒のヘリコプター。
陸上自衛隊所属の、ブラックホーク。
それが、まるで天から降臨した神のように、彼らの頭上に滞空していた。
機体に搭載されたミニガンが火を噴き、鬼塚たちの足元に正確な威嚇射撃を叩き込む。
ドドドドドッ!
砂塵が舞い上がり、男たちの視界を奪った。
その隙に、ヘリコプターから黒い戦闘服に身を包んだ隊員たちが、次々とロープで降下してくる。
まるで、黒い稲妻の群れだった。
彼らが放つ、訓練された者だけが持つ強烈なプレッシャーが、一瞬で場を制圧した。
星は、あまりの衝撃に、足の痛みさえ忘れてその光景を見つめていた。
隊長らしき男が、無言でハンドサインを送る。
すると、隊員たちはまるで統率された狼の群れのように散開し、わずか十数秒で、呆然と立ち尽くす犯人たちを全員、地面に組み伏せてしまった。
その手際の良さは、もはや芸術の域に達していた。
隊長の男が、こちらに轉身する。
逆光で表情は見えないが、その高身長でがっしりとしたシルエットが、強烈な圧迫感と、それ以上の安心感を星にもたらした。
失血のせいで、視界が霞み始める。
男は、星の前に片膝をつくと、その大きく、節くれだった、しかし驚くほど沉稳な手で、星の足の出血点を強く圧迫した。
「メディック!」
短く、低い、よく通る声で、彼は部下に指示を出す。
すぐに軍医が駆けつけ、星は手早く担架に乗せられた。
死の匂いが充満していた砂丘から、引き離されていく。
星は、軍用の医療車両の中に運び込まれた。
バタン、とドアが閉まり、外の喧騒が嘘のように遠ざかる。
「バイタル安定。意識レベル、クリアです」
軍医の木村と名乗る男が、冷静に報告する。
彼らの会話から、この部隊が陸上自衛隊の中でも最強と謳われる、特殊作戦群であることを星は確信した。
心の底にあった大きな石が、ようやく取り除かれた気がした。
星は、車両の隅で、手についた血を無言で拭っている隊長の男を見つめた。
(……助かった)
今度こそ、本当に。
私は選んだ。翔太にすがらず、自分の意志で美咲を逃がした。そして、ガラスの破片で鬼塚を傷つけ、ここまで這いずってきた。たとえこのまま終わっても――私は、あの時の無力な私ではない。
もう、運命に「助けて」と嘆願するだけの哀れな私は、ここにはいない。 私は、死の運命を変えることができたんだ。
安堵感から、星はゆっくりと目を閉じた。
おすすめの作品





