
婚約破棄された天才女医、冷徹な軍人総帥に溺愛される
章 3
軍用車両が、鳥取基地の臨時駐屯地に静かに停車した。
後部のドアが開け放たれ、夜間用の眩しい投光器の光が、星の目を射抜く。
数名の衛生兵が、手際よく星の乗った担架を運び出し、防風性の高い、巨大な医療用テントへと急いだ。
鷹司慧は、ヘルメットとゴーグルを外し、その冷たく整った顔を露わにした。そして、担架の後を追うように、静かにテントの中へと足を踏み入れた。
無影灯の真下に運ばれた星は、その強烈な光の中で、初めて慧の顔をはっきりと見た。
深く彫られた目鼻立ち。
厳しく引き結ばれた唇。
全てを射抜くような、鋭い黒曜石の瞳。
その顔を見た瞬間、星の心臓が大きく跳ねた。
(この人は……!)
前世の記憶が、鮮烈に蘇る。
東南アジアの、蒸し暑いジャングル。人身売買組織のアジト。
絶望の淵で、死を覚悟した自分を救い出してくれた、一人の指揮官。
顔は覚えていなかった。
だが、この圧倒的な存在感と、瞳の奥に宿る静かな光は、決して忘れられるものではない。
「……っ!」
感情の昂りのままに、星は身を起こそうとした。
しかし、その動きが足の銃創に響き、鋭い痛みが走る。
「う、ぐ……」
思わず漏れた苦悶の声に、慧の眉がわずかに寄せられた。
彼は大股で星のそばに歩み寄ると、その大きな手で星の肩をぐっと押さえつけた。
「動くな。治療の邪魔だ」
低く、有無を言わせぬ、威厳に満ちた声。
その掌から伝わる、硬質な熱。
星は、内心の激しい動揺を無理やり押し殺し、彼の命令に従って、大人しく手術台に横たわった。
軍医が、傷口の洗浄と局所麻酔の注射を始める。
麻酔の針が刺さる痛みと、消毒液の冷たさに、星の額にじっとりと汗が滲んだ。
慧は、少し離れた場所で、腕を組んでその様子を冷徹な目で見つめていた。
だが、星が痛みに耐えるために下唇を血が滲むほど噛み締めた時、彼は黙って星のそばに寄り、清潔なガーゼを彼女の口元に差し出した。
「……」
星は、一瞬、驚いて目を見開いた。
そして、彼の意図を察し、素直に口を開けてガーゼを咥える。
慧を見上げる瞳に、感謝と、そして深い探究の色が浮かんだ。
やがて、軍医がピンセットで弾丸を摘出し、傷口を縫合し終えた。
「これで危険はないでしょう」
その言葉に、テント内の張り詰めた空気が、ようやく少しだけ和らいだ。
慧は軍医に短く頷くと、傍にあった戦術用の折り畳み椅子を引き寄せ、星のベッドの横に腰を下ろした。
彼は、記録用の手帳を取り出すと、完全に事務的な口調で、星の名前と住所を尋ねてきた。その声には、感情の起伏が一切感じられない。
星は、彼の質問に淡々と答えた。
しかし、高橋翔太の名前を口にする時、その瞳に隠しきれない嫌悪の色がよぎった。
慧は、その微細な感情の変化を見逃さなかった。
記録する手を止め、その深い瞳で、星の蒼白な顔をじっと見つめる。
「あの……」
沈黙に耐えかねたように、星が先に口を開いた。
「助けていただいて、ありがとうございました。鷹司、隊長」
掠れた声だったが、感謝の気持ちははっきりと伝わったはずだ。
慧は、星が自分の名前を知っていることに、わずかに驚いた表情を見せたが、特に深くは追及しなかった。
「職務だ」
ただ、それだけを冷たく言い放った。
その時、一人の通信兵が慌ただしくテントに駆け込んできた。
「隊長!外周の警戒線に、不審な複数の人影を確認しました!」
慧は、その報告を聞くと同時に、椅子から立ち上がった。
再び、冷徹な指揮官の顔に戻っている。
彼は、手早く装備を身につけながら、星に「ゆっくり休め」とだけ言い残し、嵐のようにテントから去っていった。
星は、夜の闇に消えていく、彼の逞しい後ろ姿を、ただじっと見つめていた。
そして、誰にも見えないように、シーツの下で固く拳を握りしめる。
今度こそ、この人の隣に、堂々と立てる自分になる。
もう二度と、誰かに運命を委ねたりはしない。
星は、固く、そう誓った。
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