
君が染める白黒の世界〜冷徹なる覇王と傷だらけの天才医〜
章 3
華やかな宴会場。その喧騒の中に身を置きながら、結衣の心は午前中に遭遇した「銀色の仮面の男」に囚われていた。拭い去れない胸騒ぎが、さざ波のように心を掻き乱す。
その時だった。入り口の方がにわかに色めき立ち、誰かが声を潜めて囁きかけた。「見て、長谷川様よ……本当にいらしたわ!」
その一言が合図であったかのように、あれほど騒がしかった会場は水を打ったように静まり返る。人々は畏怖を込めて左右に分かれ、そこには吸い込まれるような一本の道が生まれた。
結衣もまた、弾かれたように顔を上げた。
そこには、ゆっくりと歩を進める京介の姿があった。上質な黒のシャツは端正な体躯をなぞるように完璧に仕立てられ、無造作に捲り上げられた袖口からは、しなやかな筋肉のラインが覗く。その佇まいは、圧倒的な王者の余裕を漂わせていた。
(……え?)噂に聞く「醜悪な怪物」とは、似ても似つかない。彫りの深い精悍な輪郭。鴉の濡れ羽色のように長い睫毛の下には、すべてを見透かすような鋭い瞳。すっと通った鼻梁から、剃刀のようにシャープな顎のラインに至るまで、それは冷徹なほど完璧な「美」だった。
「嘘でしょう……?あの方が、あの長谷川京介なの?」
「メディアに一切顔を出さないからって、まさかこれほどの美貌だなんて……」
「素敵……。でも、性格は残忍そのものだって聞くわよ」
「しっ、声を落として!逆らえば最後、生きては帰れないと言われる『氷の暴君』なのよ……!」
会場を支配するのは、陶酔と、それ以上に深い恐怖。
一方の結衣は、一筋縄ではいかない違和感に目を見開いていた。(……あの瞳。どこかで……)
刹那、二人の視線が真っ直ぐにぶつかった。
変……。
四目が交わった瞬間、京介の体が微かに強張ったのを、結衣は見逃さなかった。彼の瞳には、明らかな驚愕の色が浮かんでいる。
(……まさか、この顔に怯んだのかしら?)
だとしたら、苦労して施したこの「醜い特殊メイク」の勝ちだ。結衣は内心でほくそ笑んだ。
だが、京介の内面では、今まさに世界が作り替えられるほどの大嵐が吹き荒れていた。
「……葵生、あの女だ」
京介は、結衣を射抜くように凝視したまま、隣に立つ葵生に低く告げた。確信した。午前中、死の淵で自分を救ったあの女は、決して失血による幻覚などではなかった。
あの忌まわしい事故以来、京介の世界からは「色彩」が失われていた。
医師たちが「精神的トラウマ」と名付けた、永劫に続くかのようなモノクロームの世界。彼はとうに、その死んだも同然の灰色の日常に順応していたはずだった。
だが――目の前の女が、またもや奇跡を見せつけてきた。
「……本気か?」葵生が、信じられないといった様子で問い返す。
「ああ、間違いない。俺には、あの女の『色』が見える」 京介の喉から、震えるような吐息が漏れた。「……溢れているんだ」
結衣を中心に、鮮やかな色彩が噴水のように噴き出している。
彼女が手にするグラスは燃えるような金色に輝き、漆黒のドレスでさえ、彼の目には濡れたような艶やかな光沢を帯びて映る。
世界は依然として色褪せたまま。なのに、彼女の周囲だけが、目が眩むほどの極彩色に支配されていた。
「マジか……」葵生の表情から余裕が消え、真剣なものへと変わる。 「わかった。すぐに人を回して、彼女のすべてを洗わせる」
数多の名医が匙を投げた不治の病。その解決の鍵が、目の前の「忌み子」と呼ばれた女だというのか。
葵生はふと、現実的な問いを投げた。
「……それで、婚約はどうするつもりだ?」
京介の視線は、獲物を捉えた野獣のように結衣に縫い付けられたまま。彼は迷いなく、断定した。
「決まっている」
「何があろうと、この女と結婚する」
葵生は耳を疑った。たしかに彼女が「色彩」をもたらす存在だとしても、結婚までとは。
(……京介、お前、正気か?)
その時、恵子が、顔に媚びるような笑みを貼り付けて進み出た。「長谷川様、ようこそお越しくださいました!主人も息子も、まさかこれほどお早いお着きとは存じ上げず、すぐにこちらへ参りますので!」
恵子は捲したてるように言うと、結衣の背中を強引に前に押し出した。
「まずは、こちらの結衣をご覧いただけますでしょうか。長谷川様とは幼い頃にお会いしたことがあるのですが……。 本来、ご縁を結ぶはずでしたのもこの子でして。行方知れずとなっておりましたが、この度ようやく戻ってまいりました。つきましては、婚約も当然この子が……」
恵子は、あたかも「正当な形に戻っただけ」だと言わんばかりに、言葉巧みに「身代わり」の事実をごまかそうとしている。
その傍らで、次女の奈緒は、顔を真っ赤に染めて立ち尽くしていた。
(嘘……長谷川京介……
素敵……)
その圧倒的な美貌を目にした今、あの「醜い不気味な姉」に彼を譲ってしまったことを、奈緒は激しく後悔し始めていた。
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