影の恋人から、私だけの私へ の小説カバー

影の恋人から、私だけの私へ

8.6 / 10.0
五年に及ぶ歳月の間、私は誰にも知られることのない「影の恋人」として彼の傍らに在り続けた。本来であれば、私は彼の兄と結ばれるはずだったのだ。しかし、その兄が死の間際に遺したあまりにも残酷な遺言が、私たちの運命を歪な形で縛り付けてしまった。亡き兄との誓いを守るためだけに、私は自分の感情を殺し、彼との秘められた関係を甘んじて受け入れてきたのである。だが、その因縁に終止符が打たれるはずだった約束の日、彼が私に突きつけたのはあまりにも無慈悲な命令だった。それは、彼が選んだ別の女性との婚約を祝うパーティーの準備を、この手で行えというもの。献身的に彼を支え、愛を捧げてきた日々の果てに待っていたのは、あまりに虚しい裏切りだった。愛と忠誠の狭間で揺れ動きながら、私は彼にとっての都合のいい身代わりでしかなかった現実を突きつけられる。秘匿された関係の中で積み重なった絶望が溢れ出す時、私は「誰かの影」として生きることをやめ、自分自身の足で歩み出すための決断を迫られることになる。切なくも激しい、愛と自立の物語。

影の恋人から、私だけの私へ 第1章

五年もの間、私は彼の影であり、秘密の恋人だった。

すべては、彼の兄私が結婚するはずだった男との、死の床での約束のせい。

その約束が果たされる日、彼は私に、別の女との婚約パーティーの準備をしろと命じた。

第1章

五年という月日が、終わろうとしていた。

茅野佳耶が約束を交わしてから、千八百二十五日目。

そして、ついにその約束を破ることを決意した日。

佳耶は、床から天井まである大きな窓のそばに立っていた。

眼下に広がる煌びやかな東京の夜景に、その視線は注がれていた。

だが、その光は意味のない色の滲みにしか見えなかった。

この五年、彼女は城戸雅臣の影だった。

彼の秘書として、問題解決係として、彼の癇癪を受け止め、後始末をする女として。

それだけではない。

彼の恋人でもあった。

六本木のペントハウスという無機質な豪奢さの中に隠された、秘密の恋人。

それは、見当違いの義務感から彼女が演じてきた役割だった。

すべては、死にゆく男との約束のせい。

彼女が心から愛した、ただ一人の男との。

その記憶は、今でも彼女の呼吸を止める力を持っていた。

病院の消毒液の匂い。

執拗に鳴り響く機械のビープ音。

そして、彼女の手の中で冷たくなっていく、雅臣の兄、樹の手。

「五年だ、佳耶」

彼の声は弱々しくかすれ、彼女が愛した温かいバリトンは見る影もなかった。

「たった五年でいい。あいつを見守ってやってくれ。あいつは無鉄砲で、俺のたった一人の弟なんだ。約束してくれ」

橘樹。

彼女の未来になるはずだった男。彼女の夫になるはずだった男。

彼女の世界で唯一の、本物の光。

その光は、弟の雅臣を正式に養子として橘家の籍に入れる数週間前に、ぐしゃぐしゃにねじれた金属と砕け散ったガラスの残骸の中で、消えてしまった。

彼女は頷いた。

彼のためなら、何でもすると誓っただろう。

そして悲しみのあまり、その献身を、彼が遺した唯一の人間へと移してしまった。

樹への約束の重みを、雅臣への愛だと勘違いしてしまったのだ。

背後で、乱暴にドアが開く音がした。

「佳耶」

雅臣の声は鋭く、沈黙を切り裂いた。

彼は彼女に目をくれることもなく、耳に押し当てたスマートフォンに意識を集中させていた。

「手段は選ぶな」

彼はデバイスに向かって吐き捨てた。

「やり遂げろ」

通話を終えると、彼はスマホを革張りのソファに放り投げた。

その瞳が、ようやく彼女を捉えた。

もはや冷たく無関心ではなく、見慣れた、遊び心のある残酷さに満ちていた。

「例の件は?」

「買収提案書はデスクの上に。主要なリスク要因にはマーカーを引いておきました」

彼女の声は平坦で、感情が一切なかった。

「お前の分析なんざ頼んでねえよ」

彼は唇の端を歪め、そう言った。

バーカウンターへ歩み寄り、グラスに酒を注ぐ。

彼はこういうゲームが好きだった。彼女を支配する力を楽しんでいた。

彼女が自分に夢中で、決してそばを離れない忠実な子犬だと信じきっていた。

「姫川コンツェルンとの合併の話だ。詩織と結婚することにした。会社にとっても、俺たちの家族にとっても重要なことだ。だから、今後数ヶ月は、お前も最高の態度でいろ。面倒は起こすな、分かったな?お前がどれだけ感情的になるか、知ってるからな」

姫川詩織が、滑るように部屋に入ってきた。

背後から雅臣の首に腕を回す。

彼の頬にキスを落とすと、その瞳が、勝利に輝きながら、彼の肩越しに佳耶の視線とぶつかった。

「まあ、雅臣様。そんなに佳耶さんを責めないであげて」

詩織は猫なで声で言った。その声には偽りの甘さが滴っていた。

「彼女なりに、頑張ってはいるのよ。ただ…そうね、育ちが違う方に、私たちのプレッシャーなんて理解できるはずないものね?生まれつき導く側の人間と、従う側の人間がいるってことかしら」

詩織を見つめる雅臣の表情が和らぐ。

彼は振り返り、彼女を腕の中に引き寄せた。

「お前は彼女に優しすぎる」

見慣れた光景だった。

この五年、繰り返し見てきた芝居。

傲慢な御曹司と、その完璧な社交界の恋人、そして無能で恋に溺れた哀れな部下。

詩織の完璧に手入れされた手が伸びた。

グラスではなく、挑発的に雅臣のシャツの胸元を指でなぞる。

「あら、あなた」

彼女は喉を鳴らすように言った。その目は佳耶から一瞬も離れない。

わざと一歩下がり、近くのテーブルにぶつかって、赤ワインのグラスを倒した。

ワインは、雅臣の真っ白なシャツに直接飛び散った。

「何てことしてくれたの!」

詩織は息を呑み、非難の指を佳耶に向けた。

「あなたが近くに立ってたから、びっくりしちゃったじゃない。これ、オーダーメイドのシャツなのよ!」

その非難は、あまりにも馬鹿げていて、見え透いていた。

佳耶は微動だにしなかったのに。

雅臣の顔が険しくなる。

彼はシャツの染みから佳耶へと視線を移し、その瞳は見慣れた、冷たい怒りに満ちていた。

「目が見えないのか?」

彼は吐き捨てた。

「俺の前から消えろ」

シンプルな黒いドレスのポケットに隠された佳耶の手が、固く握りしめられた。

爪が手のひらに食い込む。

一年前のある夜のことを思い出した。

彼は酔って弱気になり、彼女だけが自分を理解してくれる、もしかしたら、もしかしたら本物の関係になれるかもしれない、と囁いた。

そのたった一つの約束、その希望のちらつきが、彼女をここに縛り付けていた。

彼が明らかに忘れてしまったか、あるいは最初から本気ではなかった約束。

手のひらの小さな鋭い痛みは、歓迎すべき気晴らしだった。

それだけが、本物だった。

彼女は一言も発さず、ドアに向かって歩き出した。

「それから、もう一つ」

雅臣の声が彼女を呼び止めた。

彼女は立ち止まる。背中は彼らに向けたまま。

「詩織と婚約する」

彼は、意図的な残酷さを込めた口調で告げた。

「パーティーは来月だ。準備はお前がやれ。何しろ、俺が未来の計画を立てるのがどれだけ得意か、お前はよく知ってるだろ。樹には、お前のために未来を計画してやる機会もなかったもんな。残念だったな?」

一つ一つの言葉が、ハンマーのように打ち付けられた。

これが、最後通告だった。

だが、痛みではなく、奇妙で、深い解放感が彼女を包んだ。

自分は雅臣を愛しているのだと、愚かにも思い込んでいた。

しかしこの瞬間、彼の最後の、残酷な一撃で、悲しみと義務感の霧がようやく晴れた。

彼を愛してなどいない。

一度も愛したことなどなかった。

死んだ男への約束を果たすために、その弟に自分を犠牲にして、亡霊にすがりついていただけだったのだ。

彼女は自由だった。

「おめでとうございます」

驚くほど穏やかな声で、彼女は言った。

その言葉は灰の味ではなく、何年も地下牢にいた後の、初めて吸うきれいな空気の味がした。

雅臣の smirk が揺らいだ。

彼は彼女の背中を見つめ、その瞳には困惑と苛立ちがちらついた。

これは彼が望んだ反応ではなかった。

涙は?懇願は?心の痛みは?

この不気味な冷静さが、彼を苛立たせた。

何か、もっと鋭いことを言おうと口を開いたが、彼女はもういなくなっていた。

ドアが静かに閉まる。

彼は顔をしかめ、詩織の方へ向き直った。

*まあいいさ*、と彼は思った。令嬢を強く抱き寄せながら。

*隠してるだけだ。家に帰って泣き崩れるに決まってる。あいつは俺に夢中すぎて、絶対に離れられないんだから*。

彼女が決して買えないような、馬鹿みたいに高価なハンドバッグでも送ってやろうと、心の中でメモした。

それでいつも、万事解決するのだから。

彼女はペントハウスを出て行った。

その足取りは均等で、落ち着いていた。

走らなかった。

泣かなかった。

同じビルにある、彼女自身の小さな無機質なアパートに戻ると、彼女はノートパソコンを取り出した。

指がキーボードの上を飛ぶように動き、その動作は正確で、機械的だった。

メールに返信しているのではなかった。

彼女は、ルーク国際ラリーにエントリーしていた。

耐久レース。

地球の裏側で行われる、過酷で危険な競争。

彼女は、この五年、誰にも呼ばれなかった名前を使った。

違う人生に属していた名前。

約束の前の人生。

確認メールが受信トレイに届いた。

もう、後戻りはできない。

彼女はノートパソコンを閉じた。

約束は果たされた。

刑期は終わった。

消える時が来たのだ。

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