
牢獄で四年──偽りの令嬢、ついに無双モード突入!
章 2
智子の表情は、途端に陰りを帯びた。
当時、佐久間家は、小林美咲との関係を断ち切るべく、東條グループの人間たちが居並ぶ前で、美咲にあの絶縁状を書くことを強いたのだ。
その甲斐あって、東條グループが佐久間家を咎めることはなかった。
だが、それもまた……止むに止まれぬ事情があったと、彼らは主張するだろう。
記者たちは、我先にとマイクを突き出した。 「佐久間智子様、まさか本当にそのようなことがございましたのでしょうか? 以前は、実の娘様が見つかったとはいえ、幼い頃から慈しんで育てられた佐久間美咲様を見捨てることなどないと、固くお誓いになっていらっしゃいませんでしたか?」
智子は、気まずさに顔を引き攣らせ、か細く笑った。 「そんなことは……もちろん、決してございません」
美咲は、嘲るように唇の端を吊り上げた。 「ならば、智子、あの時居合わせた東條グループの関係者を呼び出し、この場で対質する勇気はある?あの絶縁状が本物かどうか、白黒はっきりさせましょうよ!」
「美咲、いい加減にしろ!東條グループの関係者など、おいそれと呼び出せる相手ではないんだぞ!」傍らにいた浩志が、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
美咲は、そんな彼を侮蔑の眼差しで見やり、冷ややかに唇を歪めた。 「つまり、できない、と?」
浩志は、返す言葉を失い、ぐっと詰まった。
築き上げてきた佐久間家の清廉なイメージが、今まさに瓦解しようとしている。 そう悟った智子は、窮余の一策として、まるで激しい発作に襲われたかのように、突然苦しげに咳き込み始めた。
美月は、母親の意図を瞬時に察し、慌てて智子を支え、その背中を心配そうにさすった。 「お母様、どうなさったの?大丈夫?」そして、美咲に視線を向け、か弱く、今にも泣き出しそうな、傷ついた表情を浮かべた。
「お姉様……お母様は、この数年の間、あなたが刑務所できちんと食事を摂れているか、安眠できているか、そればかりを案じて、毎日涙に暮れていらっしゃったのよ。 すっかり体が弱ってしまって、お医者様からも、今は決して刺激を与えてはいけないと。 もし、これまでの十数年の養育の恩を少しでも心に留めてくださるのなら、もうこれ以上、お母様を責めないで。 どうか私たちと一緒に、お家へ帰りましょう……」
美咲は、そのあまりにも芝居がかった美月の様子に、心の底から吐き気を催した。
家に、帰るだと?
かつて「佐久間美咲」には確かに家があった。 だが、今の「小林美咲」には――
とっくの昔に、そんなもの、もうどこにもない!
彼女は、もう二度と彼らと関わりを持つ気などなかった。
その澄んだ瞳の奥には、確固たる決別が宿っていた。
「『佐久間美咲』は四年前、この世で死んだ。 佐久間家の人間が、この手で、確かに殺したんだ!」
そう言い放つや否や、美咲は押し寄せる人混みをかき分け、迷いなくその場を後にした。
智子は、美咲の去り際を見て取ると、そのまま地面に崩れ落ち、「ああ、痛ましい!」とばかりに、嗚咽を漏らしながら泣き叫んだ。
そして、白目を剥いて、意識を失った。
騒然とした現場は、たちまち混乱の渦に包み込まれた。
浩志は素早く智子を背負い上げると、足早にその場を後にした。 美月も、慌ただしくその後を追う。
自家用車に乗り込み、外のメディアや記者たちから隔絶された途端、智子はすっと目を開け、ゆっくりと体を起こした。
先ほど咄嗟に気を失ったふりをしていなければ、あの場はきっと収拾がつかなくなっていただろう……。
全ては、佐久間美咲のせいであった!
自分たちは過去を水に流し、温かく彼女を出迎えに行ったというのに。 感動するどころか、あろうことか大勢の前で佐久間家の顔に泥を塗るとは。
佐久間家は、とんでもない恩知らずを育ててしまったものだ!――そう、智子は心の中で毒づいた。
「美咲はひどすぎる!恩知らずにも程がある!」浩志は、怒りに震える手でハンドルを強く握りしめ、感情に任せて罵りの言葉を吐き出した。
智子の目に宿っていた、つい先ほどまでの優しげで慈愛に満ちた表情は、瞬く間に陰鬱で冷酷な光を宿したものへと変貌する。
彼女は鼻を鳴らし、冷ややかに言い放った。 「あの子、一文無しだし、四年もの前科があるのよ。 佐久間家を出たら、この世で生きていけるわけがないわ! 『佐久間美咲』は必ず戻ってくる。私にはいくらでも、あの子を懲らしめる方法があるのだから!」
……
午後、小林美咲は、滝川市役所の正面玄関に姿を現した。
約束の時間にはまだ間があったため、彼女は一本の木にもたれかかり、静かに目を伏せていた。
彼女の思考は、遠い過去へと誘われていく。
四年前、刑務所に入ったばかりの頃、彼女は地獄のような日々を送り、苛烈ないじめに遭った。
半殺しにされたその時、幸運にも、刑務所内のとある「大物」によって救われたのだ。
その「大物」は、囚人の身でありながら、刑務所内で絶大な権力を誇り、特別に建てられた豪華な個室に住まうほどであった。 看守でさえ、彼女に手出しすることなどできなかった。
他の囚人たちは、その名を聞くだけで震え上がり、遠巻きに避けて通っていた。
その 「大物」 は、 美咲の内に秘めたものを見抜き、 弟子に迎え入れようとしたが、 そこにはただ一つ、 条件があった――
それは、 美咲に一つの結婚を承諾させ、 結婚後に彼女のためにある 「目的」を成し遂げさせる、 というものだった!
この地獄のような監獄で、無事に生き延びるため。 美咲には、他に選択の余地などなかった。
彼女は即座にその条件を承諾し、頭を下げて「大物」の弟子となった。
今、出所して最初になすべきは、師匠との約束を果たし、この婚約を履行すること。 それこそが、美咲に課せられた使命であった。
少し離れた場所の、日陰になった路肩に、一台のロールスロイス・ファントムが静かに停まっていた。
「社長、あちらのお方……佐久間恵子おば様が、社長のために手配された結婚相手でございますか?」
車の窓越しに、目を伏せて佇む、すらりとした体つきの女性の姿が目に留まった。
シンプルな白いTシャツにローライズのジーンズという出で立ち。 ふと伸びをした際に、ほっそりとしたウエストがちらりと覗き、見る者の目を奪う。
遠目から見ても、その佇まいにはどこか冷ややかな野性味が宿り、並々ならぬ気配を放っていた。
顔立ちは確かに整っているが、四年もの前科持ち。
佐久間恵子様は、一体何を考えていらっしゃるのか。 よりにもよって、自分の社長を「刑務所帰り」の女と結婚させようとするとは。
さらに理解に苦しむのは、社長がその縁談に、あっさりと同意したことだ!
東條幸雄は、後部座席に深く斜めに寄りかかり、腕を無造作に投げ出していた。 まくり上げられた袖口からは、しなやかに引き締まった前腕が覗く。
彼は、獲物を狙うかのように細い目をさらに細め、女性の華奢なウエストに視線を落とした。 その口元には、どこか邪悪な、しかし魅惑的な笑みが浮かんでいた。
やがて、幸雄は静かに車のドアを開け、ゆっくりと女性に向かって歩き出した。
「小林さん、かな?」
呼びかけられた美咲は、はっと顔を上げた。
その瞬間、美咲は思わず息を呑んだ。
目の前には、漆黒のシャツをまとった長身の男が、まばゆい太陽の光を遮るようにして立っていた。
その顔立ちは、まるでルーブル美術館に飾られる精巧な油絵のごとく、息をのむほどに美しかった。
この男が……師匠が語っていた、東條グループの「どうしようもない放蕩息子」だというのか?
美咲は、一瞬の戸惑いを覚えながらも、震える声で尋ねた。 「あ、あなたは……東條さん、でいらっしゃいますか?」
男は、かすかに頷いた。
美咲は、魅入られたように彼をもう一度見つめた。 彼は、一見ラフな格好をしているにもかかわらず、その全身からは抗い難い不思議な気品が漂っていた。 深い瞳の奥に宿る笑みは、決して目元まで届いてはいない。
その存在は、どこか神秘的で、底知れぬ深みを秘めているかのようだった。
「小林さん、 あまり見つめると、 目が飛び出してしまいますよ」 幸雄は、 愉快そうに軽く笑った。
美咲は、自分が彼をあまりにも無遠慮に見つめすぎていたことに気づき、はっと慌てて視線を逸らした。
「申し訳ございません……では、そろそろ中に参りましょうか」
二人は並んで市役所へと足を踏み入れ、再び外へ出てきた時には、その手には真新しい結婚証明書が加わっていた。
「幸雄さん、どうかご安心ください。 聡美様の嘱託が済み次第、決してご迷惑をおかけすることはありません。 その時には、すぐに離婚の手続きをさせていただきますから」
二人の間に、いかなる感情も存在しない。 四年もの前科を背負う女を、妻に迎え入れたいと願う男など、この世にいるはずがない。 美咲は、己の立場を、痛いほどにはっきりと理解していた。
幸雄は、風に軽くなびく彼女の長い髪へと、静かに視線を向けた。 妖艶な顔立ちとは裏腹に、その美しい瞳はどこまでも澄み切って輝いていた。
彼は美咲の言葉には何も返さず、代わりに尋ねた。 「叔母は、中でどう過ごしていましたか?」
美咲は、一瞬の戸惑いを顔に浮かべたが、すぐに取り繕って答えた。 「おば様は大変お元気で、中では何の苦労もされていらっしゃいませんでした」
そう言い終えると、美咲は、ふと唇をきゅっと結んだ。
苦労どころか、むしろ……
刑務所は、彼女の師匠である聡美にとって、まるで「第二の家」とでも呼ぶべき場所であったのだから!
「それは、何よりだった」
幸雄はそれ以上深くは尋ねず、ポケットから一枚のカードを取り出すと、美咲の前に差し出した。 「このカードを、どうか使ってください。 私からの、ささやかなお祝いです」
美咲はきっぱりと断った。 「結構です。 私には、充分なお金がありますので。 」
二人は結婚したばかりだというのに、今日が初対面である。 それに、師匠の話によれば、幸雄は東條家の人間でありながら本家からは疎まれ、東條グループ内での地位も低いという。
まともな仕事もせず、毎日ぶらぶらと遊び歩く、絵に描いたような放蕩者。
貯蓄など、大してあるはずもない。
そんな彼の金を受け取るなど、美咲には到底できるはずもなかった。
しかし、幸雄は眉一つ動かさず、美咲の手を掴むと、無理やりその手のひらにカードを握らせた。
彼の漆黒の美しい瞳が、美咲の目を射抜くように見つめる。 その奥には、一切の感情を読み取らせない、底知れぬ光が宿っていた。
「私たちは、今しがた結婚証明書を受け取ったばかりだ。 今、この瞬間から、私が君の夫。 妻が夫の金を使うのは、当然の権利ではないのか?それを受け取らないということは、私の夫としての立場を認めない、とでも言うつもりか?」
「夫」という二文字が、美咲の冷ややかな頬に、予期せぬ淡い赤みを差した。
「も、 もちろん、 そんなことは……」
美咲は懸命に説明しようとしたが、 言葉の終わりが近づくにつれて、 一体何を言えばいいのか、 その先が全く見えなくなってしまった。
美咲は、ついに観念したように黙ってカードを受け取ると、小さく礼を述べた。
幸雄は、満足げに薄い唇を吊り上げ、柔らかな声で尋ねた。「どこへ? 送り届けよう」
美咲の心は、重く沈んだ。 彼女は、佐久間家へと戻るつもりでいたのだ。
他の全てはどうでもよかった。 ただ、佐久間恵子が亡くなる前に美咲に残してくれた、あのブレスレットだけは、どうしても取り戻さなければならなかった。
佐久間勝政と智子が仕事に忙殺され、ほとんど美咲を顧みなかった間も、ずっと彼女のそばに寄り添い、教え、世話をし、温かく育ててくれたのは、他ならぬ恵子だったのだ。
血の繋がりこそなかったものの、恵子が美咲に注いでくれた愛情は、何よりも本物だった。
もし恵子が生きていたなら、あの忌まわしい時も、きっと美咲を信じてくれたに違いない。
美咲の心に、一抹の、しかし深い悲しみがふと浮かび上がった。
彼女はすぐにその感情を奥底に押し殺し、幸雄を見上げて、作り物のような微笑みを浮かべた。 「私、少々用事がございますので、幸雄さんはお忙しいでしょうから、お送りいただかなくても結構でございます。 」
「分かった。 何か困ったことがあれば、いつでも電話してくれ」
幸雄は、自身の電話番号を告げると、美咲が人混みの中へと去っていくのを、じっと見送った。
美咲の姿が完全に視界から消え去ると、幸雄はゆっくりと視線を戻し、その手の中にある真新しい赤い結婚証明書を、まるで宝物でも見るかのように見つめた。 そして、わずかに口元を吊り上げた。
離婚、だと? ありえるはずがない。
彼が、この日をどれほど、どれほど待ち望んでいたのか――その真意を知る者は、誰一人としていなかった。
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