
君が死んでも、愛は終わらない
章 3
桜井芽衣 POV
蓮は藤原寧々をしっかりと腕に抱き寄せた。声を出そうとしたけれど、喉の奥が締めつけられ、何も言葉にならなかった。
涙が頬をつたう頃には、もう彼の背中は遠ざかっていた。私は、どうしても今の彼を、あの十八歳の少年と重ねることができなかった。雪の中を駆けてきたあの背中と、今、冷たく去っていく背中が、視界の中で重なり、引き裂かれる。
――あの日、雪が降る駅前で「ずっと一緒に白髪になるまで」と笑ったあの人とは、もうまるで別人だ。
「……芽衣、もしお前が本当に死にそうだったとしても、俺は同じことを言うと思うよ」
彼は一度も振り返らず、そう言い残して出ていった。
「死んでくれるなら、やっと静かになる。だったらさっさと死ねばいい」
その瞬間、全身から力が抜け、私はその場にへたり込んだ。
……ああ、この人、本気で私が死ぬことを願ってるんだ。
それからというもの、蓮は二度と家に戻ってこなかった。私ももう、何も期待していなかった。
遺品整理リストを作り、遺影用の写真を撮り、最期に着る服を買いに行った。
写真屋では、数ある写真の中から、少し横を向き、遠くを見つめる一枚のモノクロ写真を選んだ。もう二人で写る必要はない。私だけの旅立ちだ。
数日後、写真屋の店主から「現像できましたよ」と連絡を受け、私は受け取りに向かった。
帰ろうと角を曲がったところで――蓮と藤原にばったり出くわした。
「……何してる。まさか俺を尾行でもしてるのか?」
くだらない言い合いはしたくなかった。腹の奥がまた疼きはじめていて、私はただその場を去りたかった。
「桜井さん、奥さま、写真を撮りに来たみたいです」
藤原がそう言って、私の手元にある封筒に手を伸ばそうとした。私は思わず一歩引いた。
「奥さま、見られたくないみたいですね。そんなに秘密にして……もしかして、何か隠してるんじゃ?」
彼女の声音は一見控えめで、けれど含みをもったその言葉に、蓮が目を細めた。視線が私の腕の中の写真フレームへと向かう。
「何を隠してる?」
痛みがどんどん強くなる。それでもここで立ち去ることだけを考えていたのに、蓮が私の手首をぐっと掴んだ。
その瞳にあるのは、かつての優しさではなかった。あるのは――嫌悪と疑念。
でも、私はもうその目に傷つくような女ではなかった。
「別に……あなたには関係ないことよ」
私は静かに彼の手を振りほどこうとしたが、彼は封筒を掴んで離さなかった。その拍子に写真フレームが落ち、袋から滑り出た中身が地面に、表向きで露わになった。
――私の遺影。モノクロの、静かな顔。蓮の驚愕に凍りついた顔と、陽の下で鋭いコントラストを描いた。
「……え? これ……白黒写真?」
藤原が驚いたように言う。けれど、彼女の唇はわずかに笑っていた。
私はただ、その写真を見つめた。
――やっぱり、見られてしまったか。
彼は、これを見て後悔するだろうか。こんなにも冷たくしたことを、少しでも悔やむだろうか。
「これが……お前の『隠し事』か?」
冷ややかな声が響いた。
蓮の顔には、一切の哀しみも、動揺もなかった。あるのは、ただ冷酷な静けさ。
「……今度は本気で死ぬつもりか?よくもそんな芝居を……!」
かつて、私が咳をしただけで心配で眠れなかった人が――今の彼は、私の死すら「芝居」だと疑っている。
私はふと、笑ってしまった。
「ダメかしら? 少しくらい後悔するあなたの顔、見てみたかったの」
「じゃあ勝手に死ねよ」
そう言い捨てて、彼は私を突き飛ばし、振り向くこともなく歩き出した。
その瞬間、もう限界だった。私は崩れるように地面に倒れた。
「奥さま!?」
周囲から驚きの声があがる。藤原が駆け寄り、私の身体を抱き起こした。
そして、私の耳元にそっと囁いた。その首元に、蓮が私に贈った誕生日のネックレスがきらりと光る。
「見たでしょ? あの人はもう、あなたが死んでも微塵も動じない。……あなた、もう愛されてないのよ」
私は残された力で、彼女の手を振り払った。
その瞬間――
「……やめろ、寧々。構うなよ。どうせ、また芝居だ」
蓮の声がした。振り返りもせず、冷たい声で吐き捨てた。
「演技が好きなら、勝手に一人で演じてればいい」
私は通りすがりの人に助けられて、どうにか家へ戻った。
ソファに倒れ込むようにして、やっと一息つく。
痛み止めを飲んで、少しだけ腹の痛みが和らいだ。
けれど、心の中は真っ暗なままだった。
目を閉じると、あの言葉が何度も何度もよみがえる。
――「じゃあ、勝手に死ねよ」
私は思い出す。あの冬のことを。
私は重い肺炎にかかって、何度も危篤の宣告を受けた。お金もなくて、彼は親戚や友人の家を回り、頭を下げ続けた。
何度も断られ、罵倒されて、それでも必死だった。
そんな彼が、ある日、病室で私の足元に膝をつき、泣きながら手を握った。
「芽衣……お願いだ、薬を飲んで。……死なないでくれ」
――あの時、あんなにも私を生かしようとしてくれた人が、今は誰よりも私の死を願っている。
壁のカレンダーを見上げる。余命の「ひと月」は、もうすぐ終わる。
……良かったね、蓮。あなたの望んだ通りになる日が、もうすぐ来るわ。
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