
余命三ヶ月の妻、冷酷な総帥の溺愛に甘える
章 2
高橋家の寝室は、静の私物で溢れていた。だが、そのどれもが彼女自身の選択ではない。健太が選び、与えたものだ。
静はクローゼットの奥から、嫁ぐ時に持ってきた唯一の私物である、くたびれた帆布のトートバッグを引きずり出した。
中に入れるものは少ない。下着を数枚と、古いセーター。それだけを無造作に詰め込む。
階下からはまだ健太の怒鳴り声が聞こえていたが、もう静の心には届かなかった。
静かに階段を下り、玄関のドアを開ける。振り返ることはしなかった。
降りしきる雨の中、再びタクシーを拾う。行き先は世田谷区にある井上家。彼女が十八歳まで過ごした、養父母の家だ。
タクシーが閑静な住宅街の一角で停まる。静は慣れた足取りで、雨に濡れた石畳のアプローチを進んだ。
見慣れた和風の門構え。かつては安らぎの場所だと信じていた。
インターホンを押す。しばらくして、家政婦の気怠げな声が応えた後、重い門がゆっくりと開いた。
手入れの行き届いた庭を抜け、玄関の引き戸を開ける。
客間では、養父母である井上崇と文江が楽しげに茶を飲んでいた。静の姿を認めると、二人の動きがぴたりと止まる。
「まあ、静。どうしたの、こんな時間に」
養母の文江が湯呑を置いた。その声には、歓迎の色など微塵もない。
「手ぶらで帰ってくるなんて。健太さんと喧嘩でもしたの?」
文江の棘のある言葉を無視して、静は客間の奥にある仏壇へと向かった。そこには、彼女を産んですぐに亡くなった実の母親の位牌が置かれている。
静が求めているのは、その引き出しに仕舞われている、母の形見のネックレスだけだった。
引き出しに手をかけた瞬間、鋭い痛みが腕に走った。
「何をしているの!」
文江が鬼の形相で静の腕を掴んでいた。その爪が、静の柔らかな皮膚に深く食い込む。
「人の家に勝手に入ってきて、泥棒みたいな真似をするんじゃないわよ!」
「離してください、お義母様。これは私の母のものです」
静が身をよじって抵抗すると、文江の怒りが爆発した。
パァン!
乾いた音が部屋に響き渡った。
静の視界がぐらりと揺れる。左の頬が燃えるように熱い。口の中に鉄の味が広がった。
衝撃で畳の上に崩れ落ちる。その拍子に、胃の奥が再び針で刺されたように痛んだ。
「文江、やめなさい。そんな、はしたない娘のために手を汚すことはない」
主座に座っていた養父の崇が冷ややかに言った。その声には、娘を案じる響きは一切ない。ただ、面倒なものが転がり込んできたという苛立ちだけが滲んでいた。
その時、二階からわざとらしい悲鳴が聞こえた。
「お母様!お姉様!どうしたんですか!」
高価なシルクのパジャマに身を包んだ井上桜子が、階段を駆け下りてくる。
桜子は倒れている静には目もくれず、文江の元へ駆け寄った。
「お母様、大丈夫?手が痛くありませんこと?」
そう言って文江の、平手打ちをした手を自分の両手で優しく包み込む。
静は顔を上げた。乱れた髪の隙間から桜子の顔が見える。心配そうな表情の下に隠された、微かな得意の色を、静は見逃さなかった。
「お姉様…」
桜子が今度は静の方を向いた。その大きな瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。
「どうしてお父様とお母様を怒らせるようなことばかりするの?私が健太さんといるのが、そんなに気に入らない?」
「桜子、あなたのせいじゃないのよ」
文江はすぐに桜子を背中にかばい、静を指差して罵った。
「この子は恩知らずなのよ!井上家が拾ってやった恩も忘れて、高橋家に嫁いだ途端に私たちをないがしろにして!本当に育て方を間違えたわ!」
静は手の甲で唇の端から流れた血を拭った。そして畳に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。その背筋は驚くほどまっすぐに伸びていた。
いつもなら、ここで泣いて許しを乞うはずだった。だが、今の静にその選択肢はなかった。
彼女はまるで初めて見る他人を観察するかのように、冷たい視線で三人を見回した。
その目に射抜かれて、崇はたじろいだ。彼は動揺を隠すように、わざとらしく湯呑を強く置いた。
「静!その目はなんだ!この家から勘当されたいのか!さっさと土下座して謝らんか!」
勘当。
その言葉を聞いた瞬間、静の心に湧き上がったのは恐怖ではなく、奇妙なほどの解放感だった。
彼女の唇に自嘲的な笑みが浮かぶ。
「この六年、私は一体何だったのでしょうね」
静の声は掠れていた。だが、その響きは部屋の隅々まで届くほど強く鋭かった。
「お姉様、何を言っているの……?怖い……」
桜子が怯えた小動物のように震え、文江の腕の中に顔を埋める。
その完璧な演技が、文江の最後の理性を焼き切った。
「このっ……!」
文江はテーブルの上の湯呑を掴むと、躊躇なく静に向かって投げつけた。
静は咄嗟に身をかわす。湯呑は彼女のすぐ横の柱に当たって砕け散り、まだ熱い緑茶が畳の上に染みを作った。
割れた陶器の破片が、静の足元に散らばる。
それを見下ろしながら、静は思った。
ああ、なんて滑稽なのだろう。
あと三ヶ月しか生きられないというのに、自分はこんな茶番に付き合っている。
静は一度、固く目を閉じた。そしてゆっくりと開く。
その瞳から、親というものに対する最後の幻想が完全に消え失せていた。
彼女は怒り狂う文江と、冷笑を浮かべる崇、そしてその陰でほくそ笑む桜子を完全に無視した。
再び仏壇に向かう。もう誰も彼女を止めようとはしなかった。
引き出しを開け、中から古びた銀のチェーンネックレスを取り出す。
それを強く、強く掌の中に握りしめた。金属の冷たさが、彼女に最後の力を与えてくれる。
静は振り返った。
そして、まだ母親の腕の中で震えるふりをしている桜子を、上から下まで値踏みするように見下ろした。その目には、もはや隠そうともしない剥き出しの軽蔑が浮かんでいた。
その視線に、桜子の背筋がぞくりと凍りついた。彼女は無意識のうちに一歩後ずさる。
静は何も言わず、帆布のバッグを肩にかけ直し、毅然とした足取りで玄関へと向かった。
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