
余命三ヶ月の妻、冷酷な総帥の溺愛に甘える
章 3
静が玄関で靴を履き替えようとした、その時だった。
背後から、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
「お姉様、待って!」
桜子が静の行く手を阻むように、ドアの前に立ちはだかった。その顔には、先ほどと同じ偽りの涙が浮かんでいる。
「行かないで。ちゃんと話し合えば、きっと……」
桜子の手が、静の袖を掴もうと伸びてくる。
静は汚らわしいものでも避けるかのように半歩下がり、その手をかわした。
「そのくだらない芝居、もうやめたら?」
冷たい声だった。
その瞬間、桜子の瞳の奥に一瞬だけ毒々しい光が宿った。彼女は庭の外に目を向けた。見慣れた高級車のヘッドライトが一瞬門柱を照らすのを、その目は確かに捉えていた。
桜子の口元に、誰にも気づかれないほどの微かな笑みが浮かぶ。
次の瞬間。
「きゃあ!」
桜子は甲高い悲鳴を上げた。まるで何者かに突き飛ばされたかのように、その華奢な体が大きく後ろにのけぞる。
静は彼女に指一本触れていなかった。
だが、静の目の前で桜子の体はバランスを失い、玄関の式台の角にわざとらしく頭をぶつけながら、派手に倒れ込んだ。
ゴン、と鈍い音がする。
桜子の額から、見る間に赤い血が滲み出した。
キーッ!
耳障りなブレーキ音と共に、玄関のドアが乱暴に開け放たれた。
「桜子!」
冷たい夜気をまとった高橋健太が飛び込んできた。
彼の視線は真っ先に、床に倒れ血を流して泣きじゃくる桜子の姿を捉えた。健太の瞳孔がカッと開く。
「桜子、しっかりしろ!」
怒れる獣のように駆け寄ると、健太は桜子をその逞しい腕の中に抱きかかえた。
「健太さん…」
桜子は健太の胸に顔をうずめ、震える指で静を指差した。
「ごめんなさい……お姉様はわざとじゃないの……私が引き止めたから……」
その、いかにも庇っているかのような言い草が、健太の怒りの導火線に火をつけた。
彼は燃えるような目で静を睨みつけた。
「九条静!」
健太は立ち上がると、大股で静の前に詰め寄り、その肩を力任せに突き飛ばした。
「ぐっ……!」
ただでさえ衰弱していた静の体は、いとも簡単にバランスを失い、背中から木製のドアに叩きつけられた。
背骨に走る激痛が胃の痙攣を誘発する。冷や汗がどっと背中を濡らした。
「病気の妹に手を上げるなんて、お前は鬼か!」
健太が憎々しげに吐き捨てる。
物音を聞きつけて客間から出てきた井上夫妻も、桜子の額の血を見て顔色を変えた。
「なんてことをするの!この人殺し!」
文江が金切り声を上げて静を罵る。
「警察を呼んでやるわ!刑務所に入って自分の罪を反省するがいい!」
四方八方から突き刺さる非難の言葉。
静は痛む胃を押さえながら、ゆっくりと背筋を伸ばした。喉の奥まで込み上げてきた血の味を、ぐっと飲み下す。
彼女は見た。
心底から桜子を心配する目で抱きしめる夫の姿を。
憎悪と侮蔑の目で自分を睨みつける養父母の姿を。
その光景を、静は目に焼き付けた。
そしてふと笑った。
その笑い声はひどく乾いていて、場違いなほど静かに響いた。あまりの異様さに、三人の罵声がぴたりと止まる。
静は笑みを消した。その目はまるで死んだ魚を見るかのように冷え切っている。
彼女は肩にかけていた帆布のバッグから、一本のカッターナイフを取り出した。
「静!お前、何をしようと……!」
健太が咄嗟に桜子を背後にかばう。
静は彼らを一瞥もせず、カッターの刃を押し出した。そして自分が着ているトレンチコートの胸元にある、一つのボタンに刃を当てる。
それは井上家の家紋が刺繍された、特注のボタンだった。静がこの家の養女であることの、唯一の証。
ザクリ。
糸が切れる乾いた音がした。
コロコロとボタンが床に転がり落ちる。
「ただいまをもちまして」
静の声は氷のように冷たく、その場にいる全ての者の鼓膜を貫いた。
「私、九条静は、井上家との縁を未来永劫、断ち切らせていただきます」
「なっ…!この恩知らずが!」
養父の崇がわなわなと震えながら怒鳴る。
「この家を出ていけば、お前など路頭に迷うだけだぞ!」
静はカッターナイフを、カシャンと音を立てて玄関の靴箱の上に置いた。それは全ての退路を断ち切る音だった。
彼女は健太を見た。その瞳には、かつて夫に向けられていた愛情のかけらも残っていない。ただ、底なしの冷たさと、深い、深い倦怠があるだけだった。
「そんなに桜子が大事なら」
静は一言、一言区切るように言った。
「私が二人を成仏させてあげる」
「何を言っている……?」
健太の眉間に深い皺が刻まれる。静の言葉の意味を、彼は測りかねていた。
静は答える代わりに、帆布のバッグに再び手を入れた。そして中から一枚の折り畳まれた書類を取り出す。
それを健太の胸に、叩きつけるように投げた。
ひらりと舞い落ちた紙が床に転がる。
一番上に書かれた、黒々としたゴシック体の文字が健太の目に突き刺さった。
「離婚届」
「な……」
健太の目が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。
この、いつも従順で、何を言っても黙って耐えていた静が、自ら離婚を切り出すなど、彼は想像すらしたことがなかった。
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