
離婚したら、元夫が知らなかった私が目を覚ました
章 3
黒岩家に嫁いでからの年月――榛名文祢は、黒岩心温に対してできる限りの誠意を尽くしてきたつもりだった。
トラブルを起こすのが得意で、いざ事が起これば「お母さま〜!」と泣きつくばかりの、絵に描いたような箱入り娘。それが心温だった。
かつて聖域会の五女に喧嘩を売り、結果としてその当主――三男・藤堂政丞に捕らえられ、市内で最も高いタワーに拘束された。もしもあのとき、自分がたったひとりで藤堂政丞と交渉に向かわなければ、心温はとうに塔の上から突き落とされ、今頃この世にいなかっただろう。
それでも、今の自分に向けられる言葉は「労働改造犯」ただそれだけだった。
「渡さないわ」
榛名文祢は迷いなく答え、まっすぐに黒岩一真を見据える。「この車は私がもらうって、あなたが言ったはずよね?『黒岩様』ともあろうお方が、たった一台の車を惜しむなんて――まさか、そんなことないでしょう?」
その顔立ちは相変わらず淡々としていて、物腰も穏やか。話す声にさえ、これまでと変わらない柔らかさしかない――なのに。黒岩一真は、目の前に立つこの女が、もはや以前のように黙って踏みにじられる榛名文祢ではないと、はっきりと悟った。
ひと呼吸おいて、彼は低く冷ややかな声で妹に告げた。「家には十数台のスーパーカーがある。欲しいなら、俺のガレージから好きなのを選べ」
けれど黒岩心温の意地はそう簡単に折れない。子どもの頃から箱入りで、何ひとつ我慢させられたことがなかった。藤堂政丞に痛い目を見せられた一件を除けば、誰も彼女に逆らわなかった。ましてや今、目の前にいるのは――かつて服役歴まで囁かれた女。その女に「いいえ」と言われた。
カッとなって、心温は手を振り上げ、榛名文祢に指を突きつける。「もう一度聞くわ。鍵、渡すの?渡さないの?」
「わたしは、渡さ――」
バチンッ!
乾いた音が部屋に響いた。振り抜かれた掌が、風を切って榛名文祢の頬に叩きつけられる。右の頬が、赤く腫れ始めていた。
「いい気になってんじゃないわよ、このクズが。私に楯突くなんて百年早いのよ!靴の紐ひとつ結ぶ価値もないくせに!」
一瞬、黒岩一真の目に鋭い光が走ったが、すぐにいつもの無感情な表情へと戻る。「心温、言葉には気をつけろ」
それだけ、淡々と口にした。頬を押さえながら、榛名文祢は静かに顔を上げ、横目で心温を見やった。「どうやら…本当に、ろくな教育を受けてこなかったのね」
その一言に、心温はますます得意げになり、顎をしゃくって見下ろすように挑発してくる。
「で?それがどうしたってのよ…ああっ!」
次の瞬間――榛名文祢の手が、窓辺の花瓶を素早く掴んだ。中に生けられていた花もろとも、水がなみなみと入ったそのままの状態で――容赦なく黒岩心温の頭めがけて叩きつけた。
「だったら…あなた親の代わりに、私がしつけてあげる」
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