
離婚後、薔薇は孤高に咲き誇る~愛を乞う元夫、母を求める息子~
章 3
渡辺雲葉――。
あの九条健司が長年想い続けている、初恋の人。
ーーその彼女が、なぜ今、健司と共に会社に?
咄嗟に背を向け、二人の脇をすり抜けようとした美咲だったが、健司に先に見つけられてしまった。
そのあからさまに避けようとする態度に、健司は無性に苛立ち、刺のある言葉を投げつけた。
「お前、会社に何しに来た?」
不意を突かれた美咲は、探るような視線を向ける健司のしかめっ面を見ているうちに、 ふと、言い様のない可笑しさが込み上げてきた。
(まさか、私が会社に来たのは健司に付きまとうためだとでも思っているの?) (彼の目に、私は一体どんな女に映っているのだろう?)
美咲は唇を吊り上げて、短く嗤う。「まだ、この会社の社員ですので」
美咲に気づいた雲葉の表情が、わずかに強張る。だがそれも一瞬だった。すぐにいつもの人当たりの良い笑みに戻り、気を利かせたように言った。
「健司、用があるなら先に行って?オフィスには一人で行けるから」
だが、健司は雲葉の手首を掴んだ。
「君は俺の特別顧問だ。遠慮する必要はない」
特別顧問?
その四文字を耳にした途端、背中が凍りついた。
――なるほど、それで。健司が突然、約束を反故にしたわけだ。
かつて彼は、西郊のプロジェクトを成功させれば、自分を顧問にすると約束してくれた。
そのために徹夜で資料を作り、会食では無理をして酒を煽り、倒れる寸前まで働いて、ようやく掴んだ契約だった。それなのに、意気揚々と会社に戻った彼女に、健司は「顧問の席は他のやつに決まった」と、あっさり告げたのだ。
あの時の美咲は、ショックを受けながらも、すべては会社のためだと自分に言い聞かせた。
今となっては、すべて自分の思い上がりだったと思い知らされる。
それだけで、雲葉のことがどれほど健司にとって大事な存在か、がにじみ出た。ルールをを重んじるはずの彼を、いとも簡単に変えてしまうほどに。
寄り添う二人の、あまりにも完璧な姿を前に、美咲は悟った。長年、自分だけが滑稽な道化を演じていただけなのだと。
唇を噛みしめ、辞職の意を伝えようとした。だが、健司は苛立ちを隠そうともせず、言葉を遮った。
「離婚にはお前も同意してサインしたはずだ。今さら覆す余地はない」
健司は眉をひそめ、冷たい目で美咲を睨む。諦めきれずに会社まで押しかけ、騒ぎを起こしに来たのだと決めつけていた。
(改心したかと思えば、昨日の態度は揺さぶりか。だとしたら、随分と安っぽい手を使ったものだ。)
健司の中で、美咲への嫌悪がさらに増した。
その冷たい表情を受け止め、美咲は拳を静かに握りしめた。二人の顔を往復してから、肩で笑う。「九条社長、ご心配なく。自分の立場はわきまえてますので。社長と渡辺さんの邪魔をするつもりなんてありません」
「ふざけた口を利くな」
雲葉まで巻き込む物言いに、健司の瞳に怒りの色が宿り、声の温度がさらに下がった。
「高橋さん、私と健司はそんな関係じゃ……本当に誤解です」
雲葉が、あくまで柔らかな声で弁明する。
この状況の当事者でなければ、その曇りのない表情に、美咲も騙されていたかもしれない。
「雲葉、お前が説明する必要はない。心が歪んだ女には、見るものすべてが歪んで見えるんだ」
雲葉を庇い、まるで親の仇のように睨みつけてくる健司を、美咲は冷めた目で見ていた。
彼への失望はとうに底をついたはずだった。それなのに、この光景はまだ鋭く胸を抉る。
(彼の目には、私は説明を聞く価値すらないということか。)
(なんという皮肉。)
「そこをどけ。俺と雲葉は仕事で忙しい。嫉妬に狂って時間を無駄にするお前とは違う」
結局、健司は美咲にまともな用事があるなど、微塵も考えていないのだ。
その見下した態度に、美咲は深く息を吸い込む。平静を装っていた顔が、わずかに強張った。
美咲が動かないのを見て、健司の我慢は限界に達しようとしていた。彼が怒鳴ろうとしたその瞬間、秘書の田中成也が駆け寄ってきた。
三人の間に漂う空気を察したのか、田中は一瞬驚いたものの、すぐにプロの顔に戻った。
「奥様、退職の件はもう社長にお話しされたのですね?」
彼は印刷したばかりの辞職届を、恭しく健司に差し出した。
「辞職?」
健司の瞳に戸惑いの色が浮かんだ。彼は美咲の静かな表情を見る。離婚を撤回させる駆け引きとして、まさか退職まで持ち出してくるとは。
「今度はどんな手?辞めてからばあちゃんに甘えて泣きつくつもり?」
健司は疑いの目で美咲を見る。
九条夫人の肩書きを失い、仕事まで手放せば、この女は生きていけないはずだ。
「九条社長が想像するような、卑劣な真似はいたしません」
強い眼差しで、美咲は健司を見据える。その声には、かつての従順さの欠片もなかった。
その気迫に一瞬言葉を失い、健司は理由の分からない苛立ちを覚えた。
「口先だけでなければいいがな」
彼は田中からペンを受け取ると、迷うことなく辞職届にサインした。
「後悔するなよ」
「ええ、もちろん」
美咲は書類を受け取ると、きっぱりと背を向けた。足取りは驚くほど軽く、長年尽くした場所への未練など微塵も感じさせなかった。
健司は目を細め、遠ざかる背中を黙って見送った。
昨夜から、美咲はまるで別人だ。以前なら、離婚を切り出せば泣きわめき、あらゆる手段で縋りついてきたはずなのに。
「健司、大丈夫……?」
健司の険しい表情を、雲葉が気遣わしげに見つめる。
その声に我に返り、健司は頭を振って雑念を払った。
(もう離婚したんだ。高橋美咲がどうなろうと、俺には関係ない!)
九条グループの門を抜けた瞬間、美咲は全身を縛るものが消え去ったような解放感を覚えた。降り注ぐ陽光が、まとわりついていた陰鬱なものをすべて焼き尽くし、浄化してくれるかのようだ。
彼女は深く息を吸い込み、固く誓った。もう二度と、自分を殺してまで誰かに合わせる生き方はしない、と。
かつての自分は、愛のために自分を見失うほど卑屈だった。
突然、スマホの着信音が思考を遮った。
画面に表示された名前に、美咲の心臓が小さく跳ねる。
白石結衣――学生時代のルームメイトであり、親友だ。だが、結婚して家庭に入ってからは疎遠になり、年に数回挨拶を交わすだけの関係になっていた。
美咲は唾を飲み込み、緊張しながら通話ボタンを押した。
電話の向こうから、懐かしい声が飛び込んでくる。
『美咲ちゃん!緊急事態!マジで助けて、死ぬ!』
結衣の切羽詰まった声に、美咲はわずかに眉をひそめ、心配そうに声をかけた。 『どうしたの?』
『巨匠・佐々木慎司の書画修復を引き受けたんだけど、最初は楽勝だと思ってたの。でも現物を見たら損傷が酷すぎて、うちの工房じゃ誰も手に負えないし、ツテを当たっても全滅でさ』
『普通のお客さんならまだしも、相手がうちの超お得意様で……。うちの親父の性格、知ってるでしょ?殺されはしないけど、カード止められるのは確実!そしたらアトリエもおしまいだよ……今回だけ、お願い!助けて!』
結衣は焦りのあまり、今にも泣き出しそうな声を上げた。『結婚して引退したことも、もう依頼は受けないってことも分かってる。でも、今回ばかりはどうにもならないの……お願い、一回だけでいいから助けて!』
電話の向こうは、しばらく沈黙したままだ。美咲が健司のために、絶頂期だった仕事をきっぱりと捨てたことを思い出し、結衣はますます不安になっていく。
『……はぁ、やっぱりいい。美咲を困らせたいわけじゃないし、他の手を考えてみる……』
『いいよ。私が直す』
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