
離婚届と黒いグローブ
章 2
写真には、彼女の手に大粒のダイヤが輝いていた。その隣には、黒いスーツを着た男の姿――見慣れた背中。
言うまでもなく、陸原湊だった。
キャプションにはこうあった。【お腹痛いって言っただけで、鳩の卵買いに連れてってくれた。もう一生、兄推しでいたい!】
考えるまでもない。桐島香織が、わざと私に見せるために投稿したのだ。
胸の内は、驚きどころか、むしろ笑えてきた。
証拠をわざわざ押しつけにくるなんて、さすがは陸原湊の“良い妹”だ。
私はさっさとスクリーンショットを撮り、証拠として弁護士に送った。
あの指輪も、あの買い物も――どれもが私と陸原湊の共同財産だ。桐島香織が使ったお金の半分は、私の取り分である。取り戻すのは当然だ。
私は弁護士に離婚協議書を用意させ、陸原湊の帰宅を待った。
その日の夜、珍しく彼のほうからメッセージが届いた
【紫苑、今夜は家で食べる。ご飯、作って待ってて】
これが陸原湊という男だ。私が離婚を切り出していても、何事もなかったかのように、当然のように私を“使用人”扱いする。
かつて、私の両親は私が真面目に働かないことを責め、陸原湊との結婚を強要した。
私は、守り抜いてきた自分の仕事を守るために、泣く泣く帰国し、命令どおり彼と結婚した。
結婚後の陸原湊は、毎日のようにレースやイベントに飛び回っていたが、それでも私への気遣いを忘れたことはなかった。
そして彼は、若手レーサーの中でも頭角を現し、順調にキャリアを積んでいった。
世間はこぞって「仕事も恋も手にした勝者」などと持て囃していた。
……桐島香織が現れるまでは。彼女の登場とともに、世間の“語り”は変わっていった。
――陸原湊は両親に無理やり結婚させられた。――本当の恋を犠牲にしてまで。――七年もの結婚生活の裏で、桐島香織はずっと彼を待ち続けていた。
そんな声を聞くたびに、桐島香織は決まってこう口にした。
「兄さんとお義姉さんはすごく仲が良いんだから。部外者が変なこと言わないで」
やがて、世間の評価はこう変わった。――桐島香織は、兄と義姉の関係を壊さないよう、ひたすら耐えてきた。
そして私は、夢も捨てて結婚したというのに、“二人の恋”を邪魔するただの存在にされていた。
私は離婚協議書をテーブルに置き、ちょうど帰ってきた陸原湊を迎えた。
「ご飯、作っとけって言ったよな?」
私は黙って一本の煙草を口にくわえ、ライターで火をつけた。ソファにもたれ、気怠げに呟く。
「できない」
陸原湊は眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに声を荒げた。
「せっかく久しぶりに家で食事しようと思ったのに、俺の妻なら、せめて一食くらい作れないのか?」
「それと……いつから煙草なんか吸うようになったんだ?」
私はゆっくりと煙を吐き出した。
「さあ、覚えてない」
陸原湊の顔がみるみる赤くなる。
「御園紫苑……お前、まだ根に持ってるのか?わざと俺に逆らってるんだな!」
私は冷笑をひとつ洩らした。
「別に逆らってるわけじゃない。離婚したいだけ」
陸原湊の視線が机の上の書類に移る。そこには、離婚協議書が一冊。こめかみの血管がぴくりと跳ねた。
「ふざけるな!いつまでこんな茶番を続けるつもりだ!」
今になっても、陸原湊はまだ、私がただの癇癪を起こしているだけだと思っている。
離婚届を最後のページまでめくり、サイン済みであることを示す。
「さあ、サインして。これでお互いスッキリでしょ」
私の筆跡を目にした陸原湊は、ようやく私が本気であることに気づいた。
「紫苑、全部俺が悪かった。殴っても罵っても構わない。だけど、どうして俺を捨てるなんてできるんだよ」
「子どもが嫌いだって言ってたよな?じゃあ産まなきゃいい。それでいいだろ?」
「そんな意地張るなよ。七年の関係、そう簡単に切り捨てられるのか?」
そう言っているうちに、陸原湊は自分で自分を泣かせていた。
その見え透いた芝居じみた姿に、吐き気すら覚える。
「いいから、気持ち悪い。さっさとサインして」
目元を赤くした陸原湊が、かすれた声で問う。
「……どうすれば、離婚しないって言ってくれる?」
少し考えた末に、私は微笑んで答えた。「そうだ、あなたがレースしてるところ、一度も見たことないな。連れてって、あなたのサーキット」
陸原湊は躊躇したが、私は思いやり深く提案した。「ねえ、桐島香織さんに電話して、意見を聞いてみたら?」
まさかと思ったが、陸原湊は本当に電話をかけた。
『大丈夫だよ、湊お兄ちゃん。奥さんが行きたいなら連れてってあげて。私に聞かなくていいよ』
『ちょうどみんなも、奥さんに会いたがってたし』
腑に落ちない。桐島香織はこの七年、私を一度も顔出しさせなかったくせに、急に態度を変えるなんて。何か仕掛けてきているに違いない。
陸原湊は安堵の息を漏らした。「な、香織みたいに素直だといいのに。お前もそろそろ性格直せよ。女が強すぎるのは損だぞ」
私は小さく首を振る。
(これで“強すぎる”の? 笑わせないで。まだまだ序の口よ)
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