
離婚届と黒いグローブ
章 3
陸原湊にサーキットへ連れて行ってもらったのは、ひとつには“無敗の天才レーサー”とまで噂される彼の実力を、この目で確かめてみたかったから。そしてもうひとつは――七年もの間離れていたあの場所で、いまの自分がまだ戦えるのかを知りたかったからだ。
あのニュル北の雨の決戦で一躍名を馳せたときと同じ、黒いグローブをはめる。レーシングスーツは、陸原湊に用意してもらったものだ。
鏡の前に立ってみると、悪くない……いや、まだいける。
更衣室を出ると、陸原湊は桐島香織や仲間たちと談笑していた。
私の姿に気づいた桐島香織が目を丸くする。
「お義姉さん、レーシングスーツなんか着てどうしたんですか?」
彼女のひと言で、周囲の視線が一斉にこちらに向けられた。
「どうしたの?あなたが着てよくて、私が着たらダメなの?」
すると桐島香織はすぐにしゅんとした様子を見せる。
「そ、そんなつもりじゃ……私、なにか気に障ることしちゃいました……?」
そこへ、陸原湊が桐島香織の前に立ち、私を睨みつけた。
「何かあるなら俺に言えよ。なんでいつも香織に当たるんだ?」
すかさず、私も負けじと口を尖らせる。「ねぇ、湊。七年ぶりにここに来て、あなたの友達と会うのも初めてなのに、ちょっとくらい私の顔を立ててくれたっていいでしょ?」
普段は何事にも動じず冷ややかな態度ばかりの私が、不意にこんな甘え方をしたからか、彼は少しばつが悪そうに視線をそらした。
「……もういいだろ。紫苑、こっちに来いよ」
私が彼の隣へ歩み寄ると、ちょうど桐島香織の立ち位置を塞ぐ形になった。
「紹介する。こいつが俺の嫁、御園紫苑」
軽く会釈をして挨拶をするも、誰ひとり反応を示さない。
先ほどまで不満げだった桐島香織は、それが逆に気に入ったようで、目を細めて得意気に笑った。
そして私の隣にすかさず腰を下ろす。
「お義姉さん、みんな普段からあんな感じだから、気にしないでね」
そのとき、彼女が突然甲高く叫んだ。
「えっ……これって、まさか……!」
信じられないという顔で片手を口に当てたかと思えば、もう片方の手で私の手首をぎゅっと掴み、ぐいと持ち上げた。その力の強さに、腕を引こうとしても振り払えなかった――。
皆の視線が私の手――正確には、手にはめた黒いレーシンググローブに注がれた。
「薔薇のマーク……まさか……」
「くろばらは七年前に引退したんだぞ。なんであんたが彼女のグローブを持ってるんだよ?」
「どうせ偽物だろ。くろばらが専業主婦なわけないし、こいつ、くろばらの名前すら聞いたことないんじゃねえの?」
陸原湊の親友たちが口々に言い立て、私の手元を疑う声が飛び交った。
陸原湊も眉間に皺を寄せている。
「くろばらはレース界の女神だ。あのニュル北の雨の一戦、当時十七歳だった彼女は最速ラップで一躍名を馳せた。そのとき使っていたのが、そのグローブなんだ」
「優勝したとき、彼女はそれを胸元に当てていた。あれで“くろばら”の名は伝説になったんだ」
「だけど、彼女はもう七年も前に引退してる。どうやってそれを手に入れた?」
私は目を丸くして、無垢な声で言った。
「へえ……くろばらって、そんなにすごかったんだ。で、私がそのグローブを持ってたら、そんなに変なの?」
桐島香織が少し焦った様子で私の袖を引き、小声でささやく。「お義姉さん、この人たちの中じゃ、くろばらは特別なんです。伝説なんですよ」
「その彼女を象徴するグローブを、ただの主婦が持ってたら……そりゃ、みんな頭にきますよ」
囁くと言っておきながら、その声はまるでわざと周囲に聞かせるかのように大きかった。
「ふうん? つまりあなたの言いたいことは……私ごときが、くろばらと関わるなんておこがましいってこと?」
桐島香織の目元がわずかに赤くなり、居心地悪そうに視線をそらした。
「お義姉さん、そんなつもりじゃ……」
その瞬間、陸原湊がテーブルを叩いて立ち上がった。顔には冷たい怒りがにじんでいる。
「御園紫苑、香織はお前のためを思って言ってるのに、また意地悪か?俺たちを何だと思ってる?」
「そうだ、くろばらをネタにするなんて、いい加減にしろよ」
「七年間も湊があんたを表に出さなかった理由がわかったわ。一度出てきたと思ったらこの醜態。俺だったら絶対無理」
「湊、お前、昔くろばらに誘われてたんだよな? 一番詳しいはずだろ」
陸原湊は誇らしげに目を細めた。
「くろばらから何度も招待を受けた。でもその頃は忙しくて、全部断ったんだ」
「御園紫苑、お前がくろばらなんて名乗る資格はない。このグローブだって、どうせ偽物だろ」
彼らが口をそろえてもっともらしい顔をするのを見て、私はとうとう吹き出してしまった。
「ふーん……じゃあ、ひとつ賭けをしない?」
「賭け?」
「私がくろばらかどうかで。もし私が本物だったら…… あなた、離婚して、財産全部置いて出てって」
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