
契約妻は捨てられた
章 2
芽世 POV:
美奈の車が私の駐車スペースを塞いでいることに, 私は一瞬, ため息をつきそうになった. しかし, 私は感情を表に出さないように努めた. もうすぐ, この悪夢のような日々から解放されるのだ.
私は仕方なく手前の空いているスペースに車を停め, 降りた. 美奈は, 家の玄関ポーチに立って, 私を待っていたかのように微笑んでいる. その笑顔は, かつて弘樹の隣で私に向けられた, あの挑発的な笑みと全く同じだった.
「あら, 芽世さん. おかえりなさい. 」彼女の声は, 蜜のように甘く, しかしその裏には毒が隠されていることを, 私は知っていた. 「ずいぶん遅かったわね. 弘樹さんも陽くんも, 心配していたわよ. 」
心配? 彼女の言葉に, 私の唇の端がわずかに引き上がる. 弘樹が私を心配するなど, この五年間で一度としてなかった.
「お構いなく. 」私は冷たく言い放ち, 美奈の横を通り過ぎようとした. 彼女の香水の匂いが, 私の鼻孔を刺激する. 嫌悪感が込み上げた.
しかし, 美奈は私の腕を掴んだ. その指は, まるで蛇のように私の腕に絡みつき, 力を込めてきた.
「ちょっと待ちなさいよ, 芽世さん. 」美奈の声に, 甘い調子は消え失せていた. 「私, あなたに言いたいことがあるのよ. 」
私の心臓が, 一瞬止まったかのように感じた. 彼女は, 一体何を企んでいるのか.
「何を, ですか. 」私の声は, 自分が思っていたよりもずっと震えていた.
その瞬間, 玄関のドアが開き, 弘樹が顔を出した. 彼の目は, 美奈の腕を掴む私の手元に注がれている.
「美奈, どうしたんだ? 」弘樹の声は, 明らかに心配の色を帯びていた.
美奈は, 弘樹の声を聞くと, 突然顔を歪ませ, 腕を掴む私の手を振り払った. そして, まるで私が暴力を振るったかのように, 腕をさすりながら弘樹に寄り添った.
「弘樹さん…芽世さんが, 私に…」美奈の声は, か細く震えていた.
私は, 呆れてものも言えなかった. この女は, 一体どこまで芝居がかったことをするのか.
「芽世, 一体何をしているんだ! 」弘樹の声が, 私を責めるように響いた. 彼の目は, 私を疑いの目で見ていた.
「パパ! ママ, 美奈おばちゃんをいじめてる! 」その声は, 陽だった. 陽は弘樹の後ろから顔を出し, 私を指差して叫んだ. 彼の目には, 私への憎悪が宿っていた.
陽の言葉に, 私の心臓がギュッと締め付けられた. この一年間, 私は陽にどれだけの愛情を注いできたことか. 彼の誕生日には, 彼が喜ぶ顔が見たくて, 夜遅くまでかけて手作りのプレゼントを用意した. 彼が熱を出した夜には, 一晩中彼のそばに寄り添い, 看病した. しかし, 彼の目に映る私は, ただの「いじめっ子」でしかなかったのだ.
弘樹は, 陽の言葉を鵜呑みにしたようだった. 彼の目は, 私を軽蔑するように見下ろしていた.
「芽世, 美奈と陽に何かしたのか? 」弘樹の声は, 冷たく, そして鋭かった.
私は, 何も言えなかった. 私の胸は, 苦しくて, 息をするのも辛かった.
「パパ! 美奈おばちゃん, 可哀想だよ! 」陽は, 美奈のスカートの裾を掴み, 上目遣いで弘樹に訴えた.
弘樹は, 陽の頭を優しく撫で, 美奈の肩を抱き寄せた. 彼の顔には, 陽と美奈を心配する色が浮かんでいた. その光景は, まるで私という異物を排除するかのように, 私を切り離していた.
「大丈夫だよ, 陽. 美奈も, もう大丈夫だ. 」弘樹はそう言って, 美奈と陽を抱きしめた. その抱擁は, 私には向けられることのなかった, 温かいものだった.
「それより, 弘樹さん, 陽くん. 今日は美奈が泊まることになったのよ. 」美奈は, わざとらしく明るい声でそう言った. 彼女の視線が, 一瞬私に向けられ, 勝ち誇ったような笑みを浮かべた.
私の心臓は, さらに深く沈んだ. この女は, 私にどこまで屈辱を与えれば気が済むのか.
「ええ, そうなんだ. 」弘樹は, 私の顔を見ることもなく, 美奈にそう答えた. 「美奈, しばらくここに滞在するんだ. 陽も, 美奈がいてくれて嬉しいだろう? 」
陽は, 弘樹の言葉に満面の笑みを浮かべた.
「うん! 美奈おばちゃん, 大好き! 」陽はそう言って, 美奈の首に抱きついた.
その光景は, 私の目には, まるで毒々しい絵画のように映った. 私は, この五年間, この家で陽のために尽くしてきた. しかし, 陽の心は, 私がどれだけ努力しても, 私のものにはならなかったのだ.
「…そうですか. 」私は, 感情のこもらない声でそう答えた.
弘樹は, 私のその平静な態度に, 少しばかり驚いたようだった. 彼の虚ろな瞳が, 初めて私をじっと見つめた. しかし, それはすぐに美奈へと戻された.
「弘樹さん, ちょっと気分が悪いわ…」美奈は, 突然顔を青ざめさせ, 弘樹に寄り添った. その演技は, あまりにもわざとらしく, 私には見え見えだった.
「大丈夫か, 美奈! 」弘樹は焦ったように美奈の肩を抱き, 心配そうに顔を覗き込んだ.
「陽くん, 大丈夫だよ. 美奈おばちゃん, ちょっと疲れているだけだから, 休ませてあげようね. 」美奈は, 陽にそう言って, 優しく微笑む.
「美奈おばちゃん, 行かないで! 陽, 美奈おばちゃんが大好きだよ! 」陽は, 美奈の服の裾を掴み, 泣きそうな声で訴えた.
「大丈夫だよ, 陽. 美奈は, もうこの家族の一員だからね. 」弘樹は, 陽の頭を優しく撫で, 美奈の顔を見つめた. その目は, 美奈を深く愛しているかのように, 優しさに満ち溢れていた.
弘樹と陽は, 美奈を抱きかかえるようにして, 家の中へと入っていった. 私は, ただその場に立ち尽くしていた. まるで, 私だけがこの家の外に閉じ込められたかのように.
弘樹が振り返り, 私に言った.
「芽世, 美奈の荷物を部屋に運んでおいてくれないか. 」彼の声は, 私に命令するような響きを帯びていた.
私の唇の端が, わずかに引き上がる. この五年間, 私はこの家の家政婦として, 彼の妻として, 献身的に尽くしてきた. しかし, 彼にとって私は, ただの召使いに過ぎないのだ.
「早見さんの荷物を, ですか. 」私は, わざとらしく美奈の苗字を付け加え, 皮肉たっぷりにそう尋ねた. 「早見さんは, ご自分の荷物も運べないほど, お体が弱いのでしょうか. 」
弘樹の顔に, 驚きの表情が浮かんだ. 彼は, 私がこんな言葉を口にするとは思っていなかったのだろう. 彼が私にこんな質問をしたこと自体, 私がいつも従順だったからに過ぎない.
「芽世, 何を言っているんだ. 美奈は体調が悪いんだ. それに…」弘樹の声には, 苛立ちが混じっていた.
「わたくしにお尋ねになることも, ないでしょう. 」私は, 彼の言葉を遮るように言い放った. 「お手伝いさんに頼めば良いのではありませんか? 」
弘樹は, 私の言葉に固まった. 彼の虚ろな瞳が, わずかに揺れていた. 彼は, 私が突然, 彼に逆らうとは思っていなかったのだろう.
「分かった. お手伝いさんに頼む. 」弘樹はそう言って, 背を向けた. しかし, 彼はすぐに立ち止まり, 再び私の方を向いた. 彼の顔には, まだ困惑の色が残っていた.
「芽世, 君…」
「承知いたしました. 」私は, 彼の言葉を遮るように言い放ち, 美奈の荷物が置かれた車の後部座席へと向かった. 私の心は, この瞬間, 完全に凍り付いたような感覚だった. もはや, どんな言葉も, どんな態度も, 私の心を揺るがすことはないだろう.
私が美奈の荷物を抱え, リビングへと戻ると, 陽が美奈の隣に座って, 満面の笑みを浮かべているのが見えた. 陽の手には, 私が彼にプレゼントした, お気に入りのクマのぬいぐるみが握られていた. しかし, そのぬいぐるみは, 今は美奈の膝の上に置かれている. そして, 陽は, そのぬいぐるみを美奈に差し出していた.
「美奈おばちゃん, これ, 陽の大事なぬいぐるみだよ! 美奈おばちゃんにあげる! 」陽は, 無邪気な笑顔でそう言った.
美奈は, 陽の言葉に驚いたように目を丸くしている. しかし, その目には, すぐに喜びの色が浮かんだ.
「まあ, 陽くん! ありがとう, 嬉しいわ! 」美奈はそう言って, ぬいぐるみを抱きしめた.
その光景は, 私の胸を深く抉った. そのぬいぐるみは, 私が陽のために, 徹夜して作ったものだ. 陽が生まれた時, 初めて彼に贈った, たった一つのプレゼントだった. 陽は, そのぬいぐるみを, いつも肌身離さず持っていた. それが, 今, 美奈の手に渡っている.
私の目に, 涙が滲んだ. しかし, 私はそれを誰にも見せまいと, 必死に堪えた.
「陽! 」弘樹の声が, 厳しく響いた. 弘樹は, その光景を見ていたようだった. 彼の目は, 陽に向けられていた.
「どうして, そんな大事なぬいぐるみを美奈にやるんだ. 」弘樹の声には, 戸惑いが混じっていた.
陽は, 弘樹の言葉に首を傾げた.
「だって, 美奈おばちゃんが一番大事だからだよ! パパが, 美奈おばちゃんのこと, 一番大事にしているから! 」陽は, そう言って, 弘樹を見上げた.
弘樹は, 陽の言葉に何も言えなかった. 彼の顔には, 複雑な感情が浮かんでいた.
「陽くん, そんなこと言っちゃダメよ. 」美奈は, わざとらしく陽を諭すような口調で言った. 「芽世さんが, 悲しむわ. 」
私の心は, 冷え切っていた. 悲しむ? 私が? もう, 悲しむ感情すら残っていない.
「大丈夫ですよ, 美奈さん. 」私は, 感情のこもらない声でそう言った. 「陽には, もう必要ないものなのでしょう. 捨ててしまっても構いません. 」
私の言葉に, 弘樹と美奈, そして陽の三人は, 一斉に私の方を向いた. 彼らの目には, 驚きと困惑の色が浮かんでいた. しかし, 私は彼らの視線を気にすることなく, リビングを後にした.
私の胸は, 苦しくて, 息をするのも辛かった. しかし, もうすぐだ. もうすぐ, この苦しみから解放される. 私は, 心の中で, 自由へのカウントダウンを始めていた.
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