
契約妻は捨てられた
章 3
芽世 POV:
朝早く, 私はベッドから抜け出した. 弘樹とは, もう何年も前から別々の寝室を使っている. 彼が美奈を連れて帰ってきてからは, それがより明確になった. 彼は美奈と一つの部屋で過ごし, 私は別の部屋で一人きりだった. 弘樹は潔癖症で, 私に触れることを嫌がった. 私が彼の服に触れることさえも, 嫌悪感を露わにした.
洗面所で顔を洗い, 身支度を整える. 鏡に映る自分の顔は, 疲れていたが, 以前のような絶望の色は消え失せていた. 私は, もうこの家を出るのだ. その事実が, 私に新たな光を与えていた.
私は家を出て, 中山博治の弁護士事務所へと向かった. 博治先輩は, 大学時代の私の先輩で, 私が最も信頼している人物の一人だ. 彼には, 私の契約結婚のことも打ち明けていた.
「芽世, こんな朝早くにどうしたんだ? 」博治先輩は, 私を見て少し驚いたようだった. しかし, 彼の顔には, いつもの優しい笑顔が浮かんでいた.
「ごめんなさい, 先輩. 急に. 」私はそう言って, 頭を下げた.
「いいんだ. 君が来てくれるのは嬉しいよ. 」彼はそう言って, 私をソファへと案内した. 「で, 何かあったのか? もしかして…契約がもうすぐ終わるから, 心細くなったとか? 」
私は, 博治先輩の言葉に苦笑した. 彼は, 私がこの契約結婚をどれだけ苦痛に思っていたかを知っている.
「心細くはありません. 」私はきっぱりと答えた. 「むしろ, 清々しています. 」
博治先輩は, 私の言葉に安心したように微笑んだ.
「それは良かった. あの契約は, 君にとってあまりにも酷なものだったからな. 」彼はそう言って, コーヒーを淹れてくれた.
「先輩, お願いがあるんです. 」私は, 博治先輩に真剣な眼差しを向けた.
「何だい? 」
「あの契約を, 完全に終わらせたいんです. 」私はそう言って, 博治先輩の顔を見つめた.
博治先輩は, 私の言葉に一瞬, 驚いたような顔をした. しかし, すぐに私の意図を察したようだった.
「…離婚届, かい? 」彼の声には, 僅かな戸惑いが混じっていた.
私は, 何も言わなかった. ただ, 深く頷いた.
博治先輩は, 私の顔をじっと見つめた. 彼の目は, 私の心の奥底を見透かすかのように, 優しい光を放っていた. 私の心に, 深い悲しみが込み上げてくる. しかし, もう, この感情に囚われてはいられない.
「分かった. 君の意思を尊重する. 」博治先輩はそう言って, パソコンに向かった. 「他に, 何か必要なものはないか? 」
「ありません. 」私はきっぱりと答えた. 「ただ, 二度と彼らと関わることのないように, 完璧に, 終わらせたいんです. 」
博治先輩は, 私の言葉に何も言わず, ただ黙々と書類を作成していった. 彼の指がキーボードを叩く音が, 静かな事務所に響き渡る.
数分後, 博治先輩は私に書類を差し出した. それは, 離婚届と, いくつかの法的な書類だった. 私は, 震える手でそれを受け取った.
「これは, 君が本当に望むことなんだな? 」博治先輩は, もう一度私に確認するように尋ねた.
「はい. 」私の声は, 自分が思っていたよりもずっと力強かった.
私は書類を受け取ると, すぐに立ち上がった. 一刻も早く, この場所から立ち去りたかった.
「芽世, 無理はするなよ. 」博治先輩は, 私の背中に優しく声をかけた. 「何かあったら, いつでも連絡してくれ. 」
「ありがとうございます, 先輩. 」私はそう言って, 事務所のドアを開けた.
「君には, 必ず幸せが訪れるさ. 」博治先輩の声が, 私の背中を追いかけてきた.
私はその言葉に, わずかに口元を緩めた. 幸せ. 私には, まだそんなものが訪れるのだろうか.
深夜, 私は星野家へと戻った. リビングには誰もいなかった. 私が夜食として用意しておいたサンドイッチは, 手付かずのままテーブルの上に置かれていた. 美奈が来てからというもの, 弘樹と陽は, 私が作った食事には一切手をつけなくなった. 私の存在は, この家の中で, 完全に消え失せていた.
私は, 冷たくなったサンドイッチを電子レンジで温め直した. 温かいサンドイッチを口に運びながら, 私は弘樹に電話をかけた. 彼の寝室のドアを直接叩くことは, 彼に許されていなかった. 彼のプライバシーは, 私よりも優先されるべきものなのだ.
「弘樹さん, 朝食の準備ができました. 」私は, 弘樹の電話が繋がると, そう伝えた.
しかし, 電話の向こうから聞こえてきたのは, 弘樹の声ではなかった. それは, 美奈の声だった.
「あら, 芽世さん. どうしたの? 」美奈の声は, 寝起き特有の甘ったるい響きを帯びていた. 「弘樹さんは, まだ寝ているわよ. 」
私の心臓が, 一瞬止まったかのように感じた. 美奈は, 弘樹の寝室にいる. そして, 彼女の声は, まるで彼女が弘樹の妻であるかのように, 私に語りかけていた.
「美奈さん, どうして弘樹さんの寝室に…」私は, 自分の声が震えていることに気づいた.
美奈は, 私の言葉に, 嘲るように笑った.
「あら, 忘れたの? 昨日の夜, 弘樹さん, 私にここに泊まってほしいって言ったのよ. 陽くんも, 美奈おばちゃんと一緒に寝たいって, 聞かなかったんだから. 」美奈の声には, 勝ち誇ったような響きがあった.
私の顔から, 血の気が引いていく. 私は, 何も言えなかった.
その時, 電話の向こうから, 弘樹の声が聞こえてきた.
「誰だ, 朝から騒がしい. 」弘樹の声は, 不機嫌そうだった.
「弘樹さん, 美奈おばちゃんが電話してるよ! 」陽の声が, 弘樹の声に重なるように, 電話の向こうから聞こえてきた.
私の手に持っていたスマートフォンが, 震え始めた. 私は, 目の前の現実を, 受け止めることができなかった.
「弘樹さん…」私は, か細い声でそう言った.
「ああ, 芽世か. 」弘樹の声は, まだ不機嫌そうだった. 「何か用か? 」
「朝食の準備ができました. 」私は, そう言って, 電話を切った.
私の心は, 完全に砕け散っていた. 弘樹は, 美奈と陽と, 同じベッドで寝ていたのだ. 私という妻がありながら, 彼は美奈を自分の寝室に招き入れ, そして陽もそこにいた.
私は, 弘樹の寝室のドアの前に立ち尽くした. 私の目には, 涙が溢れていた. 弘樹の寝室から漏れ聞こえる, 美奈と陽の楽しそうな笑い声が, 私の胸を深く抉った.
私は, 自分がどれだけ愚かだったのかを思い知らされた. 彼らは, 最初から私を「家族」として見てなどいなかったのだ. 私は, ただの契約上の妻. 彼らの都合の良い道具に過ぎなかった.
私は, もう, 彼らに何の期待も抱かない. 私は, ただ, この契約が終わり, この家から解放されることを願うだけだ.
「もうすぐだ. 」私は, 心の中で, そう呟いた.
しばらくして, 弘樹と美奈, そして陽がリビングへと降りてきた. 彼らの顔には, 幸福な寝起きの表情が浮かんでいた. しかし, 私の心は, 冷え切っていた.
「わあ, 美味しそう! 」陽は, テーブルに並べられた朝食を見て, 目を輝かせた.
弘樹は, 私の顔を見ることもなく, テーブルに着いた. 美奈は, 弘樹の隣に座り, 陽の頭を優しく撫でている.
「陽, 今日の朝食はサンドイッチだよ. 」私は, そう言って, 陽にサンドイッチを差し出した.
陽は, 私の差し出したサンドイッチを一瞥し, 顔をしかめた.
「陽, サンドイッチは嫌だ! 美奈おばちゃんが作ってくれたオムライスがいい! 」陽は, そう言って, 美奈の方を向いた.
美奈は, 陽の言葉に満面の笑みを浮かべた.
「あら, 陽くん. 美奈おばちゃん, オムライスは作ってあげられなくてごめんね. 」美奈はそう言って, 陽の頭を優しく撫でた.
「陽, 我儘を言うな. サンドイッチでも食べられるだろう. 」弘樹は, 陽にそう言った. しかし, その声は, 陽を咎めるというよりも, 諭すような響きだった.
「嫌だ! 陽, オムライスがいい! 美奈おばちゃんのオムライスがいい! 」陽は, そう言って, テーブルを叩いた.
美奈は, 陽の言葉に, 困ったような顔をして弘樹を見上げた.
「弘樹さん, 陽くんがこんなにオムライスを食べたいって言っているわ. 作ってあげられないかしら? 」美奈は, 弘樹に甘えるような声でそう言った.
弘樹は, 美奈の言葉に, わずかに眉をひそめた. しかし, すぐに美奈の方を向いた.
「芽世, 陽にオムライスを作ってやってくれないか. 」弘樹の声は, 私に命令するような響きを帯びていた.
私の心臓が, 一瞬止まったかのように感じた. 私がどれだけ陽のために尽くしても, 私の料理は嫌がられ, 美奈の言葉一つで, 彼は私に命令する.
「嫌です. 」私は, きっぱりと言い放った.
弘樹の顔に, 驚きの表情が浮かんだ. 彼は, 私が彼の命令を拒否するとは思っていなかったのだろう.
「何を言っているんだ. 陽が食べたいと言っているだろう. 」弘樹の声には, 苛立ちが混じっていた.
「陽が食べたいのなら, 美奈さんが作ってあげれば良いのではありませんか. 」私は, 冷ややかな声でそう言った. 「美奈さんは, 弘樹さんにとって, そして陽にとって, 最も大切な人なのでしょう? 」
弘樹は, 私の言葉に何も言えなかった. 彼の虚ろな瞳が, 大きく揺れていた.
「それとも, ご自分で作ったらどうですか. 」私はそう言って, 弘樹と美奈の顔を交互に見た. 「いらないなら, 捨ててしまえばいい. 私はもう, あなたたちのために料理を作る気はありません. 」
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