
裏切り夫へ、血染めの離婚届
章 2
永野凛歌菜 POV:
慎和は一晩中, 私の元へは戻らなかった. 私はソファに倒れ込んだまま, 冷え切った部屋で夜を明かした. 全身が泥と血にまみれ, その感触が肌にべっとりと張り付いている. この身に宿る穢れを洗い流したい一心で, 私は震える体を引きずり, バスルームへと向かった.
シャワーを浴びながら, 熱いお湯が皮膚を洗い流していく. しかし, 体の汚れは落ちても, 心にこびりついた裏切りの汚泥は, 決して洗い流されることはなかった. 私はシャワーの下で膝を抱え, ただ耐えるしかなかった. 心臓が鉛のように重く, 呼吸が浅くなる. めまいに襲われ, 私は意識を失いかけた.
その時, ぼんやりとした意識の中で, 温かい腕に抱きしめられる感覚があった. 誰かが私の名前を呼んでいる.
「リカナ... リカナ! 」
その声に, 私はゆっくりと目を開けた. そこには, 慎和がいた. 彼は私の異常な状態に気づき, 慌てた様子で私を抱き起こそうとしていた. 彼の顔には, 焦りと動揺が浮かんでいる.
「リカナ, しっかりしろ! 君の顔色がおかしい. 今すぐ病院へ行くぞ! 」
彼の声は必死だった. しかし, 私の脳裏には, 過去の記憶がフラッシュバックしていた.
それは, 私たちがまだ若かった頃の記憶だ. 登山中に突然の土砂崩れに巻き込まれた時, 慎和は迷わず私を庇い, その身を挺して私を守ってくれた. 彼の背中には, 大きな岩がぶつかり, 深い傷跡が残った.
「リカナ, 大丈夫か? 怪我はないか? 」
彼は血まみれの体で, 私を心配してくれた. 私は震える手で, 彼の顔に触れた.
「慎和... 」
私たちは, 土砂崩れで孤立した山中で, 何日も助けを待った. 食料もなく, 水も尽きていく中で, 慎和は常に私を励まし続けてくれた.
「大丈夫だ, リカナ. 僕が必ず君を守る. 諦めるな」
彼の言葉が, 私の唯一の希望だった. あの時, 私たちは生死の境を共に彷徨い, 互いの存在がどれほど大切かを痛感したのだ. 生きて山を下りた時, 私たちは誓い合った. どんな困難があっても, 永遠に寄り添い, 互いを守り合うと. その誓いは, 私にとって何よりも神聖なものだった. あの時の私は, 私たちの関係がどんな嵐にも耐えうると, 心から信じていた. 彼の愛は, 私の全てだった.
しかし, 今の目の前の慎和は, あの時の彼とは全く違う.
気がつくと, 私は病院のベッドの上にいた. 体は重く, 頭はガンガンと鳴っていた. ゆっくりと目を開けると, ベッドの横に慎和が座っているのが見えた. 彼は疲労困憊といった様子で, 顔色は悪く, 目の下には濃いクマができていた.
私はゆっくりと手を伸ばし, 彼の頬に触れた. 彼の肌は冷たかった. 彼は私の手に気づき, はっと顔を上げた. その瞳には, まだ動揺の色が残っている.
「リカナ! ? 目が覚めたか! ? 」
彼はそう言って, 私を強く抱きしめた. その腕は震えていた.
「ごめん, リカナ. 本当にごめん. 僕が, 君を一人にしたから... 」
彼の声は涙で掠れていた. 彼は私が意識を失っていた間, ずっとここにいたのだろうか.
「君が突然倒れたから, 本当に心臓が止まるかと思った. もう, 二度と君を離さない」
彼の声は, あの時の山中で私を励ましてくれた声と重なる. しかし, その言葉は, 私にはもう響かなかった.
私はそっと彼を押し戻した.
「話があるの」
私の声は, ひどく冷静だった. 慎和は私の言葉に, 一瞬怯んだように見えた.
「話? ああ, そうだな. 君が落ち着いたら, ゆっくり話そう. でも, 今は体調が一番だ. 自暴自棄になるようなことは, 二度としないでくれ」
彼はそう言って, 私の手を握りしめた. その手のひらは, あの時のように私を安心させるものではなかった.
その時, 彼の携帯電話が鳴り響いた. 画面を見ると, 「梓紗」の文字が光っている. 彼の顔が, 一瞬にして凍り付いた. 彼は慌てて電話を切ったが, もう遅い. 私の心は, 完全に冷え切っていた.
「もう, いいわ. 話すことは何もない」
私はそう言って, 彼から視線を逸らした. 彼は何も言えず, ゆっくりと病室を後にした.
慎和が病室を出て行った後, 私の携帯電話が震えた. 見慣れない番号からのメッセージだ. 開くと, そこには短い文と, 添付された写真があった.
「慎和さんと梓紗さんの秘密を知りたいなら, この場所へ来て」
メッセージの内容は, 私を誘うものだった. 添付された写真には, 慎和と梓紗が写っていた. 彼らは, 私の知らない場所で, 親密そうに寄り添っている. 私の心臓が, 再び鉛のように重くなった. 私は, このメッセージが何かの罠かもしれないと直感した. しかし, 同時に, これ以上ないほど強烈な好奇心と, 真実を知りたいという渇望に駆られた.
私は震える手で, ベッドから降りた. フラフラする体を叱咤し, メッセージに記された場所へと向かった. そこは, 都心から少し離れた, 静かな高級マンションの一室だった.
私がマンションのエントランスにたどり着くと, 再び携帯電話が震えた. 別のメッセージだ.
「エレベーターで最上階へ」
私は言われるがまま, エレベーターに乗り込んだ. 最上階のボタンを押すと, エレベーターはゆっくりと上昇していく. 私の心臓は, 激しく鼓動していた. 一体, 何が待ち受けているのだろうか.
エレベーターのドアが開くと, 目の前には豪華な内装が広がる廊下があった. 私は, 廊下を進み, 一番奥のドアの前で立ち止まった. ドアの隙間から, 話し声が聞こえてくる.
「慎和さん, 本当にこの子, どうするの? 」
それは, 梓紗の声だった. 私の背筋が凍り付いた.
「どうするって, 君がそうしろって言ったんだろう」
慎和の声が聞こえる. 彼らは, ここで何を話しているのだろうか.
私は, ドアの隙間から中を覗き込んだ. そこには, 慎和と梓紗がいた. 梓紗は慎和の腕に抱かれ, 涙目で彼を見上げている.
「だって, 私, 慎和さんの子供ができたのよ? どうしてくれるの? 」
梓紗の言葉に, 私の全身が凍り付いた. 子供. 梓紗が, 慎和の子供を妊娠している? 私の頭の中が真っ白になった.
「梓紗, 落ち着け. 子供は... 堕ろせばいい. 君には, 僕がいる. 僕が君の全てになる. 君を, 一生大切にする」
慎和の言葉が, 私の耳に響く. 私の心臓が, まるでガラスのように砕け散る音がした. 彼は, 梓紗に子供を堕ろさせようとしている.
「嫌よ! 私, 慎和さんの子供を産みたい! 私たちは, ずっと一緒にいようって誓ったじゃない」
梓紗はそう言って, 慎和の胸に顔を埋めた. 慎和は, 困惑した表情を浮かべながらも, 彼女の頭を優しく撫でている.
「梓紗, 君には不自由させない. 君が望むものは何でも手に入れさせてやる. リカナと同じように, 僕が君の夢を叶えてやる」
慎和の言葉は, 私への裏切りだった. 彼は, 私に与えてきたものと同じものを, 梓紗にも与えようとしている.
「本当に? 私が欲しいもの, 何でもくれるの? じゃあ, 私, リカナ先輩の作品の権利が欲しいな. そして, 慎和さんの妻の座も」
梓紗の声は, 甘く, しかし貪欲だった. 慎和は, わずかに眉をひそめたが, すぐに口元に笑みを浮かべた.
「ああ, いいだろう. 君が望むなら, 全てを君に与えよう. 君は, 僕の新しいミューズだ」
彼の言葉が, 私の心を完全に打ち砕いた. 私は, もうこの場所にいる意味はないと悟った. 私の心は, 完全に死んだのだ.
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