
「役立たず」と売られた私が、最強の座を奪うまで
章 2
斉藤家は、北瑛市で百年の歴史を誇る名家だ。父親である斉藤重樹はメンツを何より重んじ、一人息子である景吾の結婚式とあっては、市内最大級の規模で盛大に行うよう厳命していた。
妻の芙由理が、万事にわたって自ら陣頭指揮を執っているのもそのためだ。
しかし、彼女が本来、嫁として心に決めていたのは、古川家の長女、古川紗雪だった。才色兼備の紗雪こそが、息子に相応しい完璧な相手だと信じて疑わなかったからだ。
だが重樹が「恩返し」に固執し、景吾に古川詩鈴を娶るよう命じた。それが、芙由理が詩鈴を憎む決定的な理由となった。
芙由理は常々、詩鈴のことを「どこからともなく湧いて出た泥棒猫」と罵っていた。
「若奥様の衣装、これどう見てもピンクのブライズメイド用ドレスですよね? 全然ウェディングドレスに見えない」
「奥様も人が悪い わ。わざと恥をかかせようとしてるのが見え見えですもの、アハハ……」
「どうせメクラだもの。ウェディングドレスかどうかなんて見分けがつくはずもないわ。 明日もそのまま着て出て、笑いものになればいいのよ」
使用人たちのひそひそ話はかすかだったが、詩鈴は耳を澄ませ、すべてを聞き逃さなかった。
彼女は生まれつき聴覚が人並み外れて鋭く、失明してからはそれがさらに研ぎ澄まされていたのだ。
詩鈴は目の前に置かれた「婚礼衣装」を指先でなぞりながら、心の中で冷ややかに嘲笑った。
階段の踊り場から、カツカツという足音が近づいてくる。
胸元をはだけたシャツ姿の景吾と、乱れた髪にスリップドレス一枚の紗雪が、同時に姿を現した。
詩鈴がこれほど早く戻っていると思わなかった景吾は、その端正で涼やかな顔に一瞬、露骨な嫌悪の色を浮かべた。
状況を察した芙由理はすぐに使用人たちを全員下がらせ、明日の計画を台無しにしないよう、紗雪を裏口から帰させるよう息子に目配せした。
景吾は紗雪の腰を抱き寄せ、額に口づけを落とすと耳元で囁く。
「明日になったら、俺は完全にお前のものだ。いい子だから、今は先に帰ってて」
紗雪は忍び足で裏口から抜け出した。
詩鈴はうつむいたまま、かすかな笑みを浮かべた。
景吾の足音も、この部屋に何人の人間がいるのかも、彼女には手に取るようにわかる。
残念なのは、彼ら一家の今の醜悪な表情を、この目で見られないことだけだ。
芙由理はドレスを残し、二言三言言い捨てて本邸へ戻っていった。
詩鈴はソファに静かに座っていた。いつも通り穏やかで、まるで感情を持たない美しいビスクドールのようだ。
景吾はほっと胸を撫で下ろした。この様子なら上の階での出来事に気づいていないだろう。
身なりを整えて隣に座り、詩鈴の氷のように冷たい手を握る。「酒は買えたか?」
詩鈴はそっと手を引き抜き、淡々と答えた。「ええ。でも喉が渇いて、我慢できずに飲んでしまったの」
景吾はテーブルの上のグラスと半分空いたボトルを一瞥した。眉間に複雑な色が走ったが、すぐに消える。「構わないさ。君が楽しければ、いくら飲んでもいいんだよ」
詩鈴は口元を緩めた。「景吾は、本当に私に“優しい”のね」
景吾は笑みを浮かべ、この上なく優しく彼女を抱き寄せた。「馬鹿だな。君は俺の妻になるんだ。君に優しくしなくて、誰にするんだ?」
彼の腕の中に抱かれながら、詩鈴は別の女のきつい香水の匂いに頭痛を覚えた。
三秒後。
詩鈴は彼を押しのけた。
(汚い、本当に汚らわしい!)
彼はわかっている。
彼女もわかっている。
これが、別れの抱擁だと。
「明日の朝一番で、婚姻届を出しに行こうか」と景吾が言う。
詩鈴は微笑んで頷いた。「ええ、わかったわ」
「いい子だ」 景吾は彼女の艶やかな黒髪を撫でて立ち上がると、瞬時に無表情に戻った。
彼は知っている。詩鈴は従順で、決して逆らわない。明日、彼女は大人しく罠にかかるだろう。
だが、彼は彼女のその面白みのない朴訥さに、心底うんざりしていた。
翌日、区役所。
空は厚い雲に覆われ、ロビーは大勢のカップルでごった返していた。
詩鈴は白いワンピースを纏い、待合のベンチに静かに座っている。
景吾が自ら並んで整理券を取りに行った。
係員は情報を登録する際、彼にいくつか基本的なことを尋ねた。
カウンターにもたれかかり、景吾が職員と談笑している。
詩鈴は耳を澄ませ、その会話を拾い上げた。「新郎は私じゃありませんよ。“松岡峻一”です。新婦はこの古川詩鈴。私は彼女の兄で、付き添いです。彼女は目が見えないから、サポートが必要でしてね……」
それ以上聞く必要はなかった。
白杖を握る手に、じわりと力がこもる。
彼女は記憶を辿り、その名を探った。「松岡峻一」
北瑛市で悪名高い放蕩御曹司。松岡家の唯一の跡取りだが、父親は国境守備軍のトップで長年不在のため、野放しにされてきた。
幼くして母を亡くし、性格は歪み、冷酷非道。悪事の限りを尽くす、誰もが顔をしかめる札付きの「極悪二世」だ。
だが、神は彼に、息をのむほど妖しい美貌を与えていた。
重要なのは、松岡家が香水の都全体の経済を牛耳っており、松岡峻一自身も香水工房を所有しているという点だ。
斉藤家で一年かけて見つからなかった「あの物」が、もしかしたら松岡家にはあるかもしれない。
その時だ。
役所の前の通りに、轟音が響いた。
一色のハイパーカーが整列し、銀のケーニグセグを中心にピタリと距離を保ちながら民政局前に停車。入り口は車体の壁で水も漏らさぬほど封鎖された。
極限の傲慢さ、極限の派手さだ。
ドアが一斉に開き、数十人の訓練された黒服の男たちが降り立った。一糸乱れぬ動きで整列し、威圧的な人の壁を作る。
続いて、ケーニグセグのドアが跳ね上がる。黒のスラックスに包まれた長い脚が伸び、薄底の革靴が地面を捉えた。
衆人の注目の中、長身の男が姿を現した。
仕立ての良い黒のシルクシャツ。ボタンを二つ開け、引き締まった蒼白い胸元を晒したその姿は、野性味に溢れている。
朝の微光が、その妖しくも危険な美貌を照らす。深い瞳に不敵な笑みを浮かべ、軽やかにロビーへと歩み入る。全身から、慵懒でありながらも圧倒的な気配が放たれている。
闊歩するその姿は、攻撃的な気品に満ちている。
どう見ても、結婚の手続きに来た新郎には見えない。まるで――ここを破壊しに来た「喧嘩師」そのものだった。
おすすめの作品





