
「役立たず」と売られた私が、最強の座を奪うまで
章 3
背後から、付き人の栗原陸が小走りで追いついてきた。「若様、もう少しゆっくり歩いてくださいよ! ところで、相手がどこのご令嬢かご存知なんですか? 万が一、人違いだったらどうするんです?」
松岡峻一はロビーの中央で足を止め、わずかに眉を寄せた。その表情からは、怒っているのか楽しんでいるのか読み取れない。
彼はゆっくりと周囲を見回した。
鋭い視線が、最前列のベンチに座り、白杖を握りしめている一人の少女に釘付けになる。
艶やかな黒髪、白い清楚なワンピース。大人しく従順そうで、それでいて目を引くほどに美しい。
自分のような、飼いならし用のない野獣とは対極の存在だ。
二人の距離は、わずか3メートル足らず。
峻一は面白そうに、じっくりと彼女を品定めした。
(哀れなもんだな)
(婚約者に売られても知らない盲目の小娘)
時間通りに、しかもあんな派手なパフォーマンスで現れた峻一を見て、斉藤景吾は血相を変えて飛んできた。峻一の腕を掴み、強引に隅へと引っ張っていく。「おい! 誰がこんな派手な真似をしろと言った!? 俺の計画をぶち壊したら、タダじゃおかねえぞ」
峻一は鼻で笑い、軽く肩をすくめた。「俺は昔から派手好きなんでね。それに今日は俺の結婚式だぞ? 車十数台ぐらいどうってことないだろう。 文句があるなら取引は中止だ、いつでも帰るぜ」
景吾は顔色を変えた。 彼に心変わりされては困る。「わかった、わかったから! これから写真撮影と署名だ。その間、お前は一切口を開くな。いいな、絶対に喋るなよ」
斉藤家と松岡家は、長年にわたる商売敵だ。二家だけで北瑛市の経済の大半を握っている。
峻一は家への反発心が強く、28歳になっても結婚しない彼に、家からは激しい圧力がかかっていた。
「盲目の嫁」を連れて帰れば、あの頭の固いじいさんを逆上させるかもしれない。
一方、景吾にとっては、古川詩鈴という「厄介者」を厄介払いできる上に、松岡家の顔に泥を塗れる。まさに一石二鳥だ。
双方が一瞬で結んだ協定は、その歪んだ利害が見事に一致した結果だった。
何も知らぬふうを装い、静かに座っている詩鈴のもとへ、景吾が歩み寄る。「さあ、行くぞ。入籍用写真を撮る」彼は詩鈴の腕を取り、強引に立たせた。
カメラマンの指示に従い、詩鈴は椅子に座った。
その隣に、一人の男が腰を下ろす。
男の肩の位置は、彼女よりもずっと高い。そして、その体からは独特の、冷たく乾いた木の香りが漂ってきた。
詩鈴はうつむき、かすかに微笑んだ。
(……これは景吾じゃない)
彼はこんなに背が高くないし、こんな香りはしない。
峻一は横目で、隣の華奢な女を観察した。彼女は俯いてクスクスと笑っている。赤い唇が弧を描くと、頬に浮かぶ2つのえくぼがひどく魅惑的だ。
峻一は一瞬、その笑顔に見惚れてしまった。
すぐに我に返り、自嘲気味に笑う。
(本当に馬鹿な女だ。 売られたことにも気づかず、一人でニヤニヤしてやがる)
「はい、新郎新婦さん、もう少し寄って! 笑ってくださいねー!」 カメラマンが声を張り上げる。
詩鈴は顔を上げた。レンズがどこにあるのか見えないため、ただ虚空をまっすぐに見つめ、口角をわずかに上げて「完璧な花嫁」の表情を作った。
隣の男は彼女の空気に感化されたのか、無意識に背筋を伸ばした。開けていたシャツのボタンを留め、居住まいを正すと、わずかに彼女の方へと体を傾けた。
少し離れた場所でその光景を見ていた景吾は、なぜか胸の奥がチクリと痛んだ。
不快な、酸っぱい感情がこみ上げる。
撮影が終わり、3人は手続きの窓口へ向かった。
カウンターに3人が並んで座る。
窓口の職員は、思わず吹き出しそうになった。
(3人で婚姻届なんて光景は、そうそうお目にかかれないな)
マイナンバーカードを受け取って手続きを進め、職員は署名用の書類を二人の前に差し出した。
景吾は詩鈴の手を取り、署名欄へと導いた。「ここに名前を書くんだ。それから、ここもな」
詩鈴はペンを握りしめ、深く息を吸い込んだ。
(筆を落としたら、後悔なし!)
(ここにサインをすれば、もう私は彼の所有物ではなくなる)
(これからの人生、私たちは他人であり、敵同士だ)
隣では、峻一が豪快にペンを走らせていた。署名を終えるとペンを放り投げ、横目で景吾と詩鈴の様子を窺う。
(宿敵の婚約者を、俺が娶るぜ)
(なんて刺激的で、愉快な展開だな)
景吾は、詩鈴が何かに気づいて拒否するのではないかと気が気ではなかった。
詩鈴の手を強く押さえつけ、焦燥を滲ませて急かす。「さあ書くんだ。これを書けば手続きは終わりだ。そうしたら家に連れて帰ってやるから」
詩鈴は「ふっ」と笑い声を漏らすと、もはや迷うことなくペンを走らせた。
(さようなら)
決別の意志を込めて、彼女は署名欄に自分の名前を書き記した。
公印が押された赤い手帳――婚姻届の控えが発行される。
景吾は狂喜し、詩鈴の手からその1冊をひったくると、大切そうにスーツの内ポケットにしまった。「1冊は君が持っていろ。もう1冊は俺が預かる。車を回してくるから、ここで待ってな」そう言うと、小走りに去っていった。
詩鈴の隣に立っていた峻一は、片手をポケットに突っ込み、自分と詩鈴の婚姻届受理証明書を持って嬉々として走り去る景吾の背中を見送っていた。
こらえきれず、声を出して笑ってしまう。
(傑作だな……)
(あれは俺の証明書だぞ?あいつはなんであんなに大事そうに抱えてるんだ?)
笑い収めると、視線は隣の小柄で静かな女に戻った。
彼女は一人ぼんやりと立ち尽くし、白杖を握りしめている。その従順な横顔には、どこか捨てられた子犬のような、守ってやりたくなる孤独が漂っていた。
松岡峻一は、自他共に認める冷酷非道な男だ。
だが、この盲目で愚かな「妻」を前にして、不覚にも魔が差した。ほんの少しの憐憫が芽生えてしまったのだ。
斉藤景吾とは「今日の披露宴が終わるまで、詩鈴には秘密にする」という約束をしていた。
(あと数時間か…正体ばらさずに、ただ黙ってなきゃいけねぇのか)
(だが……俺は誰だ?)
(北瑛市で法もルールも無視して暴れ回る、“松岡家の極悪御曹司”だぞ)
(俺の約束なんて、ハナから信用する方が馬鹿なのさ)
「コホン」 峻一はわざとらしく咳払いをし、彼女に声をかけた。「おい。……俺が誰だか、わかるか?」
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