
拾った子がまさか億万長者の息子だったなんて!?
章 3
瞳の意識の中に、鈴木健太が星の父親であるという事実は、もはや存在しなかった。 寧川市を離れて携帯番号を変え、鈴木家の人間とは一切の連絡を断った。 星をあの男のいる世界へ連れていくつもりなど、毛頭なかった。
この数年、彼女は鈴木健太の消息を気にしたことすらない。 あの男のことだ、今頃はどこかで結婚し、念願だった自分の子供を授かっているに違いない。 そう思うことにしていた。
夜、清水瞳は清水星を抱きしめ、寝物語を一つ聞かせたが、物語が終わっても、星の目はぱっちりと開いたままだった。
瞳はベッドサイドに絵本を伏せると、星の布団をかけ直し、命じるように言った。 「目を閉じて。 もう寝なさい」
星は布団の中にもぐり込み、小さな声で不満そうに尋ねた。 「ママ、僕、今日何か間違ってた?」 胸の内で自問する。
星に非はない。 何一つ。 あの子は物分かりの良い子だ。 ただ、問題解決の手段が少しばかり強引で、辛抱強く話し合うということを知らないだけ。
瞳はいつものように「あなたが間違ってる」とは言わず、星の頭をそっと撫でた。 「あなたは悪くないわ」
冷静な時の彼女は、理知的な人間だった。 星の年齢は、まさに善悪を学ぶ大切な時期であり、大人が正しく導く責任があることを、痛いほどわかっていた。
「じゃあ、どうしてみんな僕が間違ってるって顔したの? ママまで僕を責めたじゃない」星はまだ納得がいかない様子だった。
「それはね、あなたのやり方が正しくなかったから。 誰かを守ろうとして、別の子を傷つけてしまった。 あなたはまだ小さいからわからないかもしれないけど、世の中では、弱い方が正義だと思われがちなの。 泣く子は飴がもらえるって、そういうこと」
「わからない。 ママはわかってるのに、どうして僕を怒鳴ったの?」 星の世界に、泣き声で飴をせしめるという発想はない。 拳で解決できるはずのことを、なぜ泣く必要があるのか、彼には到底理解できなかった。
「あの子たちのお父さんやお母さんが、すごく怒っていたからよ。 もしママがあなたを叱らなかったら、あの人たちがあなたを叱りつけるわ。 きっと手加減なんてしない。 だから、ママが先に手を打ったの。でも、本気で叩いたりはしてないでしょう?」 大人の世界の回りくどさを、この子に理解できるだろうか。 瞳にはわからなかった。
「悪いことをしたら罰を受ける。 正しいことをしたら褒められる。 僕は、そうあるべきだと思う」 星は顔を上げ、母親を真っ直ぐに見つめた。 互いの正義が、静かに火花を散らす。
その真っ直ぐな瞳に見つめられ、瞳は心の底から安堵した。 そうだ、子供とは本来、かくも天真爛漫なものなのだ。 自分たちでさえ嫌悪する処世術を、どうしてこの子に押し付けなければならないのだろう。 彼女は星の額に、柔らかなキスを落とした。「星の言う通りだわ。ごめんね、ママが間違ってた。これからママが間違ったことをしたら、あなたが教えてくれる?」
星の顔に、ようやく得意げな笑みが浮かんだ。 彼はこくりと、重々しく頷いた。 「うん!」
翌日、瞳がキッチンで朝食の支度をしていると、星はいつの間にか外へ遊びに出ていた。
料理ができあがっても、一向に帰ってくる気配がない。 瞳はエプロンを外し、息子を探しに階下へ向かった。 すると、古びた団地の風景に、それはあまりにも不釣り合いな光景が広がっていた。 黒塗りの高級車が数台停まり、車からは黒いスーツにネクタイを締めた若い男たちが、七、八人ほど降りてくるところだった。
ぴかぴかに磨かれた車体を、子供たちが目を輝かせて取り囲んでいる。 星もその中にいて、先頭の車から降りてきた一人の男を、じっと見つめていた。
男はサングラスをかけていたが、車を降りるとすっとそれを外した。 すかさず後ろに控えていた男が、恭しくそれを受け取る。
彼はその場に立ち止まって周囲を見回し、低く古びた建物を一瞥すると、目の前の子供たちの群れに視線を移し、最後に、星の上にぴたりと視線を固定した。 瞳も訝しんだ。
男たちの隙のない着こなし、洗練された立ち居振る舞いは、この場所の何もかもと馴染まない。 明らかに、ここの住人ではない。 ナンバープレートを見れば、寧川市から来たことがわかった。
野次馬に加わる気などなく、二階の部屋の鍵を閉め忘れてきたことを思い出すと、瞳は声を張り上げた。
「清水星、ご飯よ! 早く帰ってきなさい!」
かつては人前で笑う時でさえ、そっと口元を覆っていた淑女が、今では日に十数回もこうして怒鳴らなければ、返事一つもらえやしない。
星は先頭に立つ男をちらりと見やり、「はーい」と返事をすると、母親のもとへ駆け寄った。
二人は手をつないで階段を上る。 瞳が手を洗い終え、リビングに戻ってきた、その時だった。 ドアが、静かにノックされた。
「どなたですか?」瞳は食器をテーブルに置きながら応え、ドアへと向かった。
防犯チェーンを外し、ドアを開けた瞳は、息を呑んだまま、その場に凍り付いた。 ドアの前に立っていたのは、先ほど階下で男たちの中心にいた、あの男だった。
確かに見覚えはない。 仕事で多くの人と接してきたが、この男の顔は記憶のどこにもなかった。
階下では距離があったが、こうして間近に対峙すると、空気が重くなるような威圧感に息が詰まる。
身長は百八十五センチは超えているだろうか。 がっしりとした体格に、濃い眉と星を宿したような鋭い瞳。 仕立ての良い黒いスーツは、彼の鍛えられた身体の線を際立たせ、一目で高価なものだとわかった。
男は今、無表情に、値踏みするような目で瞳を見ている。
「どなたをお探しでしょうか?」瞳はドア枠に背を預け、警戒心を露わにした。 この男を、一歩たりとも中に入れるつもりはなかった。
「天草星はどこだ?」男が低い声で言った。
「……誰ですって?」 瞳はその名前に、全く聞き覚えがなかった。
「天草星だ」 男は繰り返した。 存外辛抱強いらしく、一語一語区切るように言った。 「俺の息子だ。 天草――星!」
心臓が、氷の爪で掴まれたようにどきりと跳ねた。 信じたくない考えが、脳裏をよぎる。 だが、瞳は平静を装った。 「存じ上げません。 人違いではございませんか」 そう言って、ドアを閉めようとした。
しかし、男は意にも介さず、ドアを押し開けると、ためらいなく上がり込んできた。 部屋の中を見回し、その視線が、古いながらも整頓された室内と、至る所に見える子供の生活の痕跡を捉える。 男は満足げに頷くと、我が物顔でソファに腰を下ろした。
手を洗って出てきた星は、ソファに座る見知らぬ男と、ドアのそばで強張ったまま立ち尽くす母親を見て、ただならぬ気配を察した。
彼の目には、母親はいつも、牙を剥く鷹なのに。 今はまるで、震える小鳥のようだった。
星は男の前に進み出ると、不機嫌な声で尋ねた。 「あんた、誰だ?」
精一杯、背伸びをした、大人びた口調だった。
男は星を見ると、ふっと笑みを浮かべ、手を伸ばして彼を引き寄せようとした。 星は、さっとその手をかわす。
男は気を悪くした様子もなく、まるで自宅のソファにいるかのように寛いで言った。 「俺はお前の父親だ」
その言葉が耳に届いた瞬間、瞳は全身から血の気が引くのを感じた。 手足が氷のように冷たくなり、立っていることさえままならない。
来た。 本当に来てしまった。
この数年間、命綱のように守ってきたこの子を、まだ愛し足りないうちに、腕の中から奪われる日が。
星は目を細めて男を値踏みするように見つめ、それから顔面蒼白で一言も発しない母親に視線を移した。 しばしの沈黙の後、彼は言った。 「あんた、死んだんじゃなかったのか?」
男もまた、ドアのそばで青ざめる瞳を見た。 何が起きたのか、即座に察したのだろう。 彼は瞳を射抜くように見つめ、警告するように唇の端を吊り上げた。 「この通り、ぴんぴんしているさ。さあ、迎えに来た。家に帰るぞ」
瞳も星も、まだ衝撃から声を発することができなかった。
星はまだ四歳だが、幼い頃から聡明だった。 母親の表情から、この男の言っていることは、恐らく真実なのだろうと悟っていた。
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