
骨髄まで奪うクズ夫を捨て、最強財閥の狂愛に堕ちる。
章 2
先ほど見た夏目綾のあの脆い表情は、決して幸福なものではなかった。
それはむしろ…… 魂を抜き取られたような、絶望の表情だった。
岩崎海渡が乗るマイバッハは次の交差点でUターンし、前を走るタクシーのすぐ後ろにぴたりとつけた。
スモークガラス越しに、海渡の視線は後部座席のぼんやりとした横顔に釘付けになっていた。
彼女は窓の外に顔を向け、華奢な肩が微かに震えている。
それは……ある感情を必死に押し殺そうとした結果、身体が耐えきれずに起こる生理的な震えだった。
「黒田逸朗……」
海渡はその名を低く呟き、その瞳には氷のような冷たさが宿っていた。
かつてあれほどまでに生き生きとしていた人間が、 どうすればこんな姿になってしまうのか。彼女に一体何があったのか、海渡には想像もつかなかった。
タクシーは高級住宅街に入り、一軒の洋館の前で停まった。
海渡は運転手に合図を送り、少し離れた場所に車を停めさせた。
彼は車内に座ったまま、静かに綾を見つめていた。
彼女は豪華な洋館の前に立ち、見上げるようにその建物を眺めている。
彼女は泣いていなかった。だが、その心の奥底からにじみ出るような壊れかけの気配は、どんな号泣よりも見る者の心を締め付けた。
そして、ドアが閉まった。
しばらくの沈黙の後。
「今井秘書」 海渡の声は、不気味なほど静かだった。
「岩崎社長」
「取締役会に通知しろ」海渡の眼差しは極限まで冷え切っていた。「本日より、黒田グループとの全ての提携を無期限で停止する。 既に契約済みのプロジェクトも、全て破棄だ!」
今井直人は息を呑んだ。「社長、それだと少なくとも20億円の初期投資が……」
「言われた通りにしろ」 海渡は有無を言わせぬ口調で彼を遮った。「それから、夜が明ける前に、黒田逸朗と妻の夏目綾に関する完全な調査報告書を私の手元に用意しろ」
「……かしこまりました」
***
その頃、綾は明かりを点け、誰もいない部屋を照らした。
逸朗はまだ帰っていなかった。
もちろん、彼がこれほど早く大森芽依の元から戻ってくるはずもなかった。
綾はスリッパに履き替え、まっすぐ二階の書斎へと向かった。
ここは逸朗の書斎だ。互いのプライバシーを尊重し、普段彼女がここに入ることはほとんどなかった。
だが今となっては、その“尊重”という言葉が滑稽に響く。
綾はパソコンを立ち上げ、彼がよく使うであろうパスワードをいくつか試してみた。
彼女の誕生日など、全てパスワードエラーが表示された。
綾は冷笑を浮かべた。
どうやら、彼はとっくの昔から自分を警戒していたらしい。
彼女の視線が書斎全体を巡り、隅に置かれた小型の金庫で止まった。
彼女が欲しいものは、もしかしたらその中にあるのかもしれない。
綾が思案にふけっていると、ハンドバッグの中の携帯電話が鳴った。
取り出して画面を見ると、「黒田逸朗」の名前が表示されている。
綾は数秒間画面を見つめた後、通話ボタンを押し、感情のこもらない声で言った。『もしもし?』
『綾、もう家に着いた? 連絡、待ってたのに』
電話の向こうから、逸朗のいつもの優しい声が聞こえてきた。
背景は静かで、会社にいるようには聞こえない。
『帰ったわ。連絡するの忘れてた』綾の返事は簡潔だった。
逸朗は一瞬言葉を切り、彼女の声色から冷たさを察したようだった。『どうした? 元気がないようだが、まだ体調が悪いのか?』
『ううん、ただ少し疲れただけ。もう休みたいの』 綾は窓辺に歩み寄りながら言った。
『そうか。じゃあ、先に休んでくれ。こっちの仕事が少し厄介で、帰りが遅くなるかもしれない。待たなくていいから』 逸朗は優しく気遣うように言った。『家政婦に頼んでおかゆを作ってもらえよ。最近は体が弱っているんだから、風邪をひかないようにな』
その偽善的な気遣いを聞き、綾は吐き気を催した。
(体が弱い? それもこれも、あなたのせいじゃない!)
『わかったわ』 彼女は冷たく答え、そのまま電話を切った。
もう一秒たりとも、彼の声を聞きたくなかった。
騙され、骨髄を抜き取られた後、彼女はようやくこの卑劣な男の本性を見抜いた。
かつて恋に盲目だった綾は、もう死んだ。
今の彼女は、冷静に、一歩ずつ、自分の全てを取り戻す。
そして、あの卑劣な男女に、相応の代償を払わせるのだ!
翌日の昼、逸朗はようやく帰宅した。
彼は靴も履き替えずに家に入ると、焦った様子で綾を抱きしめ、なだめ始めた。
「すまない、綾」徹夜明けで少し掠れた彼の声は、誠実さに満ちているように聞こえた。「昨夜は会社の件が厄介で、夜が明けるまでずっと処理していたんだ。 帰りが遅くなって、怒らないでくれ、な?」
綾は彼の腕の中に抱かれ、顎を彼の肩に乗せた。
その角度から、彼女の視線は彼の白いシャツの襟元に注がれた。
そこには、くっきりと口紅の跡が残っていた。
綾の視線は、その口紅の跡に半秒ほど留まった。
彼女の脳裏には、あの吐き気を催すような光景が鮮明に浮かび上がった。
甘ったるく、むせ返るような香水の匂いが、彼女の鼻腔を突いた。
それは、別の女の匂いだった。
(ふん! 会社の件が厄介? 厄介なのは愛人の方でしょうね!)
綾は吐き気をこらえ、逸朗から距離を取った。
「怒ってないわ」彼女は顔を上げ、完璧な微笑みを浮かべた。「お疲れ様。先にシャワーを浴びてきて。お手伝いさんに昼食の準備を頼んでおくから」
「ああ。そうだ、綾。君にプレゼントを用意したんだ」
逸朗はそう言うと、濃いブルーのベルベットのギフトボックスを差し出した。
綾は無関心に箱を開けた。高価なダイヤモンドのネックレスが目に飛び込んできた。
彼女は淡々と一瞥し、内心では何の感情も湧かなかった。
逸朗はそれに気づかず、綾が喜んでいると勘違いしている。「気に入ったか? 君のために心を込めて選んだんだ。世界に一つしかないセットだぞ」
綾は口元を微かに動かし、それから心から嬉しそうなふりをした。「本当? 感動したわ……。あなた、そんなに忙しいのに、私のためにプレゼントを選ぶ時間を作ってくれたなんて」
逸朗は彼女の冷淡さに全く気づかず、笑って彼女の髪を撫でた。「君が喜んでくれるならそれでいい。じゃあ、シャワーを浴びてくるよ」
彼が階段を上っていく背中を見送り、綾の顔から笑顔が瞬時に消えた。
浴室からすぐに水の音が聞こえてきた。
綾は3分待った。
それから立ち上がり、階段を上った。
半開きの寝室のドアを押して中に入ると、逸朗のシャツがベッドの上に投げ捨てられているのが見えた。
シャツの襟元にある口紅の跡が、目に突き刺さるように赤い。
綾の視線はベッドサイドテーブルに注がれた。
彼の携帯電話が、画面を下にしてそこに置かれている。
彼女は歩み寄り、携帯電話を手に取った。
パスワードは、二人の結婚記念日。
逸朗は一度も変えていなかった。彼は、それが人生で最も重要な日だと言っていた。
なんて皮肉だろう。
綾はパスワードを入力した。
携帯電話のロックが解除された。
彼女は素早くメッセージとアルバムを確認した。
中身は異常なほどきれいで、 意図的に消去されたかのようだった。
彼女が携帯電話を置こうとした、その時。
ブブッ!
携帯電話が彼女の手のひらで震えた。
新しいメッセージが画面に現れた。
「ダーリン、苦しいの」
綾の指先が止まった。
立て続けに、二通目、三通目のメッセージがポップアップした。
「傷口から血が出てる。私、死んじゃうのかな?」
「あなたが必要なの。 今すぐ来て」
送信者:芽依。
そして、一枚の画像が読み込まれた。
その画面を認識した瞬間、綾の瞳孔が急激に収縮した。
写真の中では、芽依が全裸で、まるで所有を誇示するかのように、一人の男の上にまたがっていた。
彼女の頬は紅潮し、目はうつろにカメラを見つめ、その鎖骨には無数のキスマークが刻まれている。
彼女の首にかけられたダイヤモンドのネックレスは、逸朗が先ほど綾に贈ったものと全く同じだった。
逸朗が愛用する限定版パテック・フィリップの腕時計をはめた手が、女の腰に無造作に回されている。
だが、綾の血を凍らせたのは、写真の背景だった。
それは、彼女のベッドだった。
彼女が自ら選び、主寝室に置いた特注の大きなベッド。
部屋の照明、装飾品、そしてベッドサイドテーブルに置かれた、彼女が読みかけの本……。
すべて、すべてが、彼女に向かって叫んでいる。
(ここで、彼らは――!私の枕元で――汚らわしい真似をしやがったんだ!)
綾は唇を固く噛み締め、口の中に血の味が広がるのを感じた。
そして。
彼女は、あの淫靡な写真を含む、全てのチャット履歴を選択した。
転送をクリックする。
宛先:夏目綾。
ファイルの送信状況バーが読み込みを始めた。5%……10%……。
彼女は、ゆっくりと進むプログレスバーを食い入るように見つめた。
37%……52%……。
静まり返った寝室で、彼女の緊張した心臓の鼓動が無限に大きくなっていく。
その時―― カチャッ!
背後で鍵の回る音がした。
ドアが、開く――!
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