
骨髄まで奪うクズ夫を捨て、最強財閥の狂愛に堕ちる。
章 3
夏目綾の心臓は、 その一瞬で 止まったかのように感じた。
彼女は息を殺して緊張しながら待ったが、予想していた足音は聞こえてこなかった。
綾はゆっくりと振り返った。
ドアは開いていたが、その外に人の姿はなかった。
今の音は……風のせいだったのだろうか?
92%……100%。
「送信完了」 画面に表示が飛び込んだ。
綾は大きく息を吐き、背中が冷や汗でびっしょりになっていることに気づいた。
彼女は素早く送信記録を削除し、すべてを元通りにした。
綾はためらうことなく、音もなく寝室を抜け出し、静かにドアを閉めて階段を下りた。
リビングに戻ると、彼女は自分のスマートフォンを手に取った。
画面には、先ほど転送したチャット履歴のすべてが、確かに保存されていた。
綾は、あの挑発的な写真を見つめ、唇の端に冷たい笑みを浮かべた。
彼女はすぐに弁護士とのチャット画面を開き、ファイルを転送してメッセージを添えた。 「先輩、新しい証拠です」
続いて、彼女はあの濃いブルーのジュエリーボックスの写真を撮り、顔なじみの高級中古品店の店主に送った。メッセージにはこう記す。「これ、売って。売上は全額、婦人児童保護基金に寄付して」
すべてを終えてスマートフォンを置いた、その時だった。階段から足音が聞こえてきた。
逸朗が濡れた髪をタオルで拭きながら階段を下りてきた。リビングに綾がまだ立っているのを見て、彼は少し驚いたように尋ねた。「綾、まだ起きてたのか?休まなくて大丈夫か?」
「少し気分が悪くて」綾は振り返り、彼を静かに見つめて言った。「今夜は客室で寝るわ」
逸朗は一瞬呆然とし、わずかに眉をひそめた。「どうしたんだ?そんなに具合が悪いのか?医者を呼ぼうか?」
そう言うと、彼はごく自然に歩み寄り、彼女の額に手を当てようとした。
「いいえ、結構です」 綾は半歩後ずさり、彼の手を避けた。「一晩寝れば治ると思います」
逸朗の差し出した手は、気まずそうに宙に止まった。彼女はためらうことなく振り返り、客室に入ってドアを閉めてしまう。
カチッ!
逸朗は、固く閉ざされたそのドアを見つめながら、心に言いようのない不安がよぎるのを感じていた。
***
翌朝早く、逸朗は緊急の電話を受け、慌ただしく家を出て行った。
階下で車のエンジン音が遠ざかるのを聞くと、綾はすぐに目を開けた。その瞳は澄み切っていて、眠気は微塵もなかった。
朝食を終え、出かけようとしたその時、親友の大島瑠美から電話がかかってきた。
綾は着信画面を見て、わずかに微笑み、すぐに電話に出た。
『綾、大丈夫?』瑠美の声には、焦りと心配が滲んでいた。『昨夜、接待の食事会で逸朗を見かけた気がするの!彼の隣には女がいて、二人の様子はすごく親密だった! 私、頭にきて飛びかかりそうになったんだけど、一緒にいた友達に止められちゃった』
綾は、ひどく落ち着いた声で答えた。『瑠美、ありがとう。その件はもう知ってる。彼とは離婚するつもり』
綾は、受け取った写真をメッセージアプリで瑠美に送った。
瑠美はそれを見るなり、怒りでスマートフォンを握りつぶしそうになった。『ひどすぎるわ!黒田逸朗、あのクズ!それに、この恥知らずな女、よくもこんな写真を送って挑発してきたわね!? 誰なの、この女!ぶっ殺してやる!』
『大森芽依。逸朗がずっと忘れられずにいた初恋の相手よ』 綾の声は淡々としていた。『彼女がこの写真を送ってきた目的は、私を怒らせて逸朗と大喧嘩させ、その隙に私の座を奪うこと。それだけ』
『とっくにあのクズ男とは離婚すべきだったのよ!あいつと大森芽依、二人でくっついて、もう他の人を不幸にしないでほしいわ。 私に言わせれば、あんな連中に情けをかける必要なんてない。あいつらがやったことを全部ネットに晒して、世間の目にさらしてやるべきよ!あの女は“泥棒猫”の烙印を押されて、一生消えない恥を背負わせてやるべきだわ!』
綾は唇の端に冷たい笑みを浮かべた。『私はただ、適切なタイミングを待っているだけ。 直接大騒ぎするのは最悪の手よ。自分だけ惨めになるだけで、何も解決しない』
彼女は一瞬言葉を切り、続けた。『瑠美、あなたに一つお願いがあるの』
『何でも言って!お金なら出すし、人手なら探すから!私、とっくにあのクズの本性は見抜いてたんだから。ずっと気持ち悪いと思ってた!』瑠美は、いつでも友人のために一肌脱ぐ覚悟だという様子だった。
これこそが本当の友人。
綾の心に温かいものがこみ上げてきた。こんな友人がいてくれるなんて、本当にありがたい。
『瑠美、じゃあ二つお願いがあるわ。一つは、セキュリティがしっかりしたマンションを探してほしい。もう一つは、大森芽依って女を調べてほしいの。できるだけ詳しい資料が必要よ』 綾は、今の自分の立場では直接調査に動くことができなかった。
『わかった、任せて』 瑠美は即座に快諾した。
***
逸朗が慌ただしく会社に駆けつけると、アシスタントの久保潤が深刻な表情で出迎えた。「黒田社長、大変です。岩崎グループが突然、一方的に我々朝日製薬との協力プロジェクトを打ち切ると通告してきました。彼らの態度は非常に強硬で、交渉の余地は一切ありません」
「どういうことだ? これまで順調に進んでいたはずじゃないか」逸朗は眉をひそめた。
「新しい社長が自ら下した決定だそうです。しかも、我々はこの案件にすでに巨額を投じています。もしこのまま協力が打ち切られれば、会社の資金繰りに深刻な問題が生じます!」
逸朗の足がぴたりと止まり、その表情が瞬時に険しくなった。「岩崎の新社長?一体何者だ?」
「岩崎海渡です!」
「何だと?彼が?」逸朗の顔色が一変し、眉間に深いしわが刻まれた。
ビジネス界において、 岩崎海渡という名前は絶対的な実力と冷酷非情な手腕の代名詞だった。
彼は、手ごわい相手として悪名高い。
巨大な権力を持ちながら、めったに表舞台には姿を現さない。
ただ、ここ二年ほどは海渡の事業の中心は海外にあったはずだ。まさか突然帰国し、岩崎グループを継ぐとは。そして、就任後最初の大仕事が、朝日製薬を狙ったものだったとは!
「理由は何だ? 岩崎グループが一方的に契約を打ち切るなら、正式な説明があるはずだ!」 逸朗の声は氷のように冷たく、足は止まることなく社長室へと向かった。
潤は早足で後を追い、苦しげな口調で説明した。「岩崎グループの公式な説明では、内部での再評価の結果、我々朝日製薬の『経口液新薬』プロジェクトは、コア技術の安定性およびその後の臨床データサポートにおいて重大な不確実性が存在し、彼らのグループの投資リスク管理基準に合致しない、とのことです」
「でたらめを!」逸朗は低く罵り、勢いよく社長室のドアを開けた。「このプロジェクトの初期臨床データは、彼らもとっくに審査済みで、非常に満足していると表明していたはずだ! これは明らかに口実だ!」
彼は苛立たしげにネクタイを緩め、広々としたデスクの椅子に腰を下ろした。
このプロジェクトは、朝日製薬の今後三年間の中核戦略であり、会社の命運をほぼ全てこのプロジェクトに賭けていた。
「すぐに岩崎海渡に連絡を取れ」逸朗は無理やり自分を落ち着かせ、命令を下した。「私が直接、彼と話す」
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