
幼馴染を選んだ元婚約者はご自由に。私はさいこうの男の「永遠」になります
章 2
明音は深く息を吸い込み、胸の奥から込み上げる酸っぱい感情を無理やり押し殺し、窓の外に顔を向けた。
ガラスの向こうには、燦々と降り注ぐ陽光と、絶え間なく流れる車の波。広大な宮都の街並みが一望できた。
ふと、思い出す。今や宮都でその名を知らぬ者はいない冬明法律事務所も、最初はたったひとつの小さなオフィスから始まったことを。
それも、彼女が自分名義の唯一のマンションを売り払い、その金で冬樹のために借りた場所だった。
今では、このフロアすべてが冬樹のものだ。
あのオフィスを借りた日も、今日のような晴天だったと覚えている。
「事務所の名前、冬明にするのはどう?」
「名前なんて何でもいい」 冬樹は表情一つ変えずに言った。「お前が決めてくれ」
明音は嬉しくて彼に飛びついたが、容赦なく頬をつねられ、その腕から引き剥がされた。「人に抱きつかれるのは好きじゃない」
それでも明音は能天気に笑い、懲りずにまた彼の胸に頭を突っ込んだ。「私は抱きつきたいの!」
かつて彼女は、豪快に笑って冬樹に告げた。「私があなたを宮都で一番の弁護士にしてみせる」と。
冬樹は「どうでもいい」と言った。彼にとっては、明音が楽しそうにしていることが何より大事だと。
彼女は約束を守った。
だが、彼は嘘をついた。
……
明音の私物は多かった。
半日かけても片付けが終わらないほどに。
創業から今日まで、彼女はずっと冬樹の背後に立ち、事務所の運営や事後処理を一手に引き受けてきた。
会社の名義は冬樹だが、ここには彼女の血と汗が染み込んでいる。
従業員たちは明音が荷造りする姿を見て、顔を見合わせるばかりで、誰も声をかけようとしなかった。
結婚式での騒動は、当然彼らの耳にも入っている。
ただ、ボスの冬樹が相手である以上、クビになりたくない彼らは陰口を叩くことすら憚った。
ようやくすべての荷物をまとめ終え、引越し業者を呼ぼうとしたその時、スマホが鳴り響いた。
着信画面には、冬樹の母親の名前。
明音は唇を引き結び、通話ボタンを押した。
『もしもし、橘さんですか?』聞こえてきたのは、家政婦の焦った声だった。
『長谷川先生に電話が繋がらないんです。お母様が急に発作を起こして病院に運ばれました。今すぐ来てもらえませんか?』
『わかった、すぐ行く』
明音が病院に駆けつけると、田中梅子はすでにベッドの上で、家政婦が剥いたリンゴを平気な顔で食べていた。
明音が入ってくるなり、梅子の蒼白な顔に焦りと怒りの色が浮かぶ。彼女はすぐさま顔をしかめ、説教を始めた。「明音、冬樹と一体どうなってるの? 結婚っていう大事なことを、こんなふうに台無しにして。 当日にキャンセルだなんて、世間に知られたらどれだけ恥ずかしいと思ってるの!」
明音の額には細かい汗が滲んでいたが、梅子に人を叱る元気があるのを見て少し安堵した。おそらく、結婚式中止の知らせを聞いて、怒りのあまり一時的に具合が悪くなっただけだろう。
「おばさん、まずは落ち着いて」
「落ち着いてなんていられるわけないでしょ!」 梅子は眉を吊り上げる。早口でまくし立てたせいか、胸が大きく波打っていた。「冬樹は頑固で、思いついたら一直線な子よ。明音、どうしてあなたが止めてあげなかったの?あの子にこんな勝手な真似をさせて」
明音は深く息を吐き、忍耐強く説明した。「私たちが式を挙げようとしていた時、静香さんが飛び降りようとしたの」
「なんですって?」梅子は驚愕し、顔色を変えた。「静香ちゃんは?無事なの?」
「無事よ。冬樹が病院に連れて行ったから」
梅子は胸を撫で下ろした。「ああ、びっくりした……無事でよかったわ」
事情を知ってようやく安心したのか、梅子は明音に対し、式のキャンセルに伴う事後処理をしっかりやるように、そして冬樹に迷惑をかけないようにと何度も念を押した。
ひとしきり騒いで体力を使い果たしたのか、彼女はすぐに眠りに落ちた。
「橘さん、わざわざすみませんでした。あとは私が見てますから、お仕事に戻ってください」家政婦が申し訳なさそうに言った。
明音はベッドで熟睡する梅子を一瞥した。「今後、おばさんのことで私に電話しないで。私は……」
言いかけた言葉を遮るように、家政婦が慌ててフォローを入れる。「橘さん、怒らないでくださいね。奥様がああ言ったのも悪気があるわけじゃないんです。そういう性格ですし、桜井さんのことは小さい頃から見てきましたから、どうしても身内贔屓になっちゃうだけで……本当は橘さんのことも大好きなんですから」
明音の口元に、自嘲気味な笑みが浮かんだ。家政婦の目から見ても、梅子が静香の方を気に入っているのは明らかだった。
「おばさんに対して怒ってなんかないわ。ただ、私と冬樹さんはもう別れたの。だから彼のことはもう私には関係ない。これからは冬樹さんに電話して」
明音はきびすを返した。家政婦が呆然としているのを気にする余裕もなかった。
だが、顔を上げた瞬間、廊下の少し先に立っている冬樹と静香が目に入った。
冬樹と視線がぶつかる。その優れた容貌は、何度見ても完璧だと認めざるを得ない。
そう。
この顔じゃなかったら、自分もあそこまでのめり込むことはなかっただろう……。
「なんでまだネットの騒ぎを処理してないんだ?俺のところにまで電話がかかってきてるぞ」 冬樹は眉をひそめ、不機嫌そうに言った。
明音の胸に苦いものが広がる。――冬樹は、本当に自分のことが好きじゃなかったんだ。
彼が求めていたのは、尻拭いをしてくれる使用人でしかなかった。
それなのに自分は、それを愛情の証だと勘違いして、尻尾を振ってついて回っていたのだ。
でも、二人の間には確かに美しい思い出もあったはずだ。
一つひとつが明音にとっての宝物であり、今まで盲目的に突き進んでこられた理由だった。
けれど今――それも終わらせる時が来た。
「明音お姉ちゃん、今日はごめんなさい。私、冬樹とお姉ちゃんの結婚式を壊しちゃって……本当に反省してます」
隣にいた静香が、まるで台本を読み上げるような誠意のない口調で謝罪を口にした。そしてそのまま冬樹の腕に絡みつき、猫なで声で甘える。「ね、冬樹。私、ちゃんと謝ったよ?もう怒らないで……」
「ああ」 冬樹は無表情に頷いた。
静香の顔にパッと笑みが咲き、勝ち誇ったような視線を明音に投げかける。
明音は冷ややかな目でそれを見ていた。
こういう安っぽい芝居は、静香の常套手段だ。
以前なら、間違いなく真っ向からやり返していただろう。
だが今は、そんな気力さえ残っていなかった。
明音は視線を外し、歩き出した。「まだ会社の荷物が片付いてないから、帰るわ」
しかし、すれ違いざまに手首を掴まれた。
振り返ると、冬樹の漆黒の瞳が彼女を捉えていた。
「話があ……」
彼が言いかけたその時、横にいた静香が突然、ふらりと冬樹の方へ倒れ込んだ。
冬樹は素早く彼女を抱き留め、緊張した面持ちになる。「どうした?」
「私……すごくめまいがして……久しぶりに輸血しなきゃいけないかも……」
「輸血」という単語を聞いた瞬間、明音の体が条件反射的に強張った。
静香は先天性の造血障害を患っており、定期的な輸血が必要だった。しかも、彼女の血液型は極めて稀なRhマイナス型。
そして明音もまた、同じRhマイナスだった。
若くて世間知らずだった頃、初めて静香への輸血を頼まれた時、明音は彼女を冬樹の従妹だと思い込み、自ら進んで引き受けた。
その後は、ただ冬樹に喜んでもらいたくて続けてきた。
あの頃の自分は本当に愚かだった。好きな人が大切にしている相手を、自分も同じように大切にしなければならないと信じ込み、何度血を抜かれたか数えきれないほどだ。
冬樹は当然のように振り返った。「明音、準備してくれ。静香に輸血する」
しかしその瞬間、明音はどうしようもなく笑いたくなった。
冬樹が自分と付き合っていたのは、単に使用人が欲しかっただけでなく、静香のために「都合のいい移動式血液パック」を確保しておきたかっただけなのではないか。
「嫌よ」彼女はきっぱりと拒絶した。
冬樹は眉をひそめる。「静香の病状は特殊なんだ。今すぐ輸血しないと死ぬかもしれないんだぞ」
「じゃあ、死ねばいい」
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