
不妊治療の果て、裏切りの産婦人科
章 3
私は生理的な嫌悪感に襲われ, 久史の膝から顔を上げて洗面所へと駆け込んだ. 胃の中のものが全て逆流してくるような感覚. 便器に顔を近づけ, 何度もえずいた.
久史が私の後を追って洗面所に入ってきた. 彼は私の背中に手を伸ばそうとしたが, 私はその手を強く払いのけた. 彼の顔を睨みつける. その目には, 憎しみと軽蔑が宿っていた.
あの時の彼の言葉が, 耳の奥で反響する. 「君が辛いなら, 無理しなくていい. 」「僕が支えられなくてごめん. 」「僕には君しかいない. 」その言葉の全てが, 今では私の心を切り裂く刃のようだった. 彼が私を気遣うふりをしていた間, 私たちの寝室で, 彼は別の女を抱いていたのだ. 私たちの思い出の全てが, 彼の嘘によって汚されてしまった.
彼の顔に, 恐怖と呆然とした感情が浮かんでいるのが分かった. しかし, 私はもう彼に同情する資格も, 彼の表情を読み解く気力もなかった.
私は洗面所を飛び出し, 寝室へと向かった. 私たちの, いや, 彼と彩夏の思い出の場所になってしまった寝室. 私はクローゼットの奥から, ずっと使っていなかったガーデニング用のハサミを取り出した.
「彩音! 何を... 」久史が私の後を追って寝室に入ってきた.
私は何も答えなかった. ただ, ハサミを振り上げ, 枕カバーを切り裂いた. 中から白い羽毛が舞い上がり, 部屋中に飛び散る. 私は次に, ベッドカバーを切り裂き, カーテンを切り裂き, そして彼のスーツを切り裂いた.
羽毛が舞い, 布が破れる音だけが部屋に響く. 白い羽毛が, まるで雪のように部屋中に積もっていく. しかし, いくら破壊しても, 私の心の怒りは収まらなかった.
「やめろ, 彩音! 」久史が私の腕を掴んだ. 彼は私からハサミを奪い取ろうとしたが, 私は強く抵抗した. その拍子に, ハサミの刃が久史の手に食い込み, 鮮血が白い羽毛の上に飛び散った.
白い羽毛と赤い血. その鮮やかなコントラストが, 私の目に焼き付いた. 私はハサミを床に落とし, 自分の手についた久史の血を見つめた. その瞬間, 私の頭の中が, 嘘のようにクリアになった.
目の前には, 私と久史の結婚写真が飾られていた. 満面の笑みを浮かべた二人の姿.
「離婚しましょう. 」私の声は, 驚くほど冷静で, 感情のこもっていないものだった.
久史は, その言葉に目を見開いた. 血の滲んだ手で, 彼は私を力強く抱きしめた.
「嫌だ! 離婚なんてしない! 彩音, お願いだ, 許してくれ! 彼女とはもう二度と会わない. もう関係を断ち切るから! 以前のように, 二人でやり直そう. 僕には君しかいないんだ! 」
彼は私の背中に顔を埋め, 子供のように泣きじゃくった. 「君がいないと, 僕は生きていけないんだ... ! 」
私は, 冷めた目で彼の震える背中を見つめていた. 彼の言葉は, 嘘ではないのかもしれない. しかし, もう, 何もかもが遅すぎた. あの時の久史は, もうどこにもいなかった. 私の中にあった, 彼への信頼も, 愛も, 全てが死んでしまった. あの頃の私たちには, もう二度と戻れない.
その後数日間, 私たちは奇妙な膠着状態に陥った. 久史は私に対して, 今まで以上に優しく, 気遣うようになった. 私が何かに怒りをぶつけても, 彼はただ微笑んでそれを受け入れた. しかし, 彼のその優しさは, 私にとっては偽りの仮面でしかなかった. 離婚の話を持ち出すと, 彼はすぐに話題を変えたり, 遠回しに「君は僕から離れられないだろう」というような態度を見せたりした.
彼の携帯電話は, 一日に何度も鳴った. 全て, 彩夏からの着信だった. 彼は私の前では決して電話に出ず, 「もう連絡は取らない」と言い張った. しかし, 私は知っていた. 毎晩, 私が寝た後, 彼はリビングでこっそりと電話をかけ, 彩夏を優しい声でなだめていることを.
ある日の夜, 彼の携帯が鳴った時, 私はリビングで彼を見つめて言った. 「出たらどう? 彩夏さんからの電話でしょう? 」
久史は一瞬, 焦ったような顔を見せたが, すぐに表情を取り繕った. 「何でもない. 君の体調の方が大事だ. 」
その時, 私の携帯が鳴り響いた. 画面には「知らない番号」と表示されていた. 久史の顔色が変わる. 彼は私から携帯を奪い取ろうとしたが, 私は彼の手をかわし, 電話に出た. そして, スピーカーフォンにした.
「もしもし? 」私の声が, リビングに響き渡る.
電話の向こうから, 女の嗚咽が聞こえてきた. 彩夏だ.
「彩音さん! お願いです! 久史さんを, 久史さんを返してください! 赤ちゃんが, 赤ちゃんが苦しがってるんです! 」彩夏の叫び声が, リビングに響き渡った.
久史の顔が, 恐怖で引き攣った. 彼は私を, まるで怪物を見るかのような目で見つめた. 私は, ただ冷たい視線で彼を見つめ返した. 私の心には, もはや憎しみさえもなかった. ただ, 深い悲しみが沈殿しているだけだった.
「わかったわ. 会って話しましょう. 」私は電話に向かってそう告げた.
久史の目が, 驚きと戸惑いで大きく見開かれた.
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