
五年間の愛、無価値だったの?
章 2
坂田朋恵 POV:
幸江様との会話を終え, 私は冷えた体で車に乗り込んだ. ハンドルを握る指先が震える. 帰り道, 頭の中は空っぽだった. これでよかったのだろうか. この五年は, 本当に意味がなかったのだろうか. そんな自問自答を繰り返しながら, 気づけば岸本家の門をくぐっていた.
車のエンジンを切ると, 静寂の中でどこからか楽しげな話し声が聞こえてきた. 嫌な予感が全身を駆け巡る. 胸が締め付けられるような痛みに, 思わずハンドルを強く握りしめた.
ゆっくりと玄関のドアを開け, 音を立てないように靴を脱ぐ. 声のする方へ, まるで夢遊病者のように足を進めた. リビングのドアの隙間から漏れる光に, 心臓が大きく跳ねる.
開け放たれたリビングのドアの向こうには, 抱き合い, 深く口づけを交わす礼十郎様と雅さんの姿があった. 私の視界は, 一瞬にして歪んだ. 息が詰まり, 全身が硬直する. 胸の奥から, 突き刺すような痛みが走った.
「あら, ここでするの, スリルがあるわね. 」
雅さんが, 挑発的な目で私の方を見た. その視線は, まるで私の存在を嘲笑うかのようだった.
「朋恵さん, まさか怒ってるんじゃないでしょうね? 」
雅さんの言葉に, 礼十郎様は冷笑した.
「怒るわけがない. 朋恵は俺を心から愛しているからな. こんなことで怒るような女じゃない. 」
彼の言葉は, 私の心を深く抉った. 私の存在は, 彼にとって何なのだろうか. ただ都合の良い女なのか. 胸の奥が空っぽになり, 冷たい風が吹き抜けていくような感覚に襲われた.
私は, 自嘲するように口元を歪めた. 私が傷つくことなど, 彼らには微塵も想像できないのだろう. 私は, 人間ではないとでも思っているのだろうか.
私も傷つく. 当たり前に, 深く, 深く傷つく.
私は感情を押し殺し, わざと足音を立ててリビングへ入っていった. 彼らは, 私がそこに立っていることに気づかないふりをした. 抱き合う二人の姿は, 私にとっては地獄絵図だった.
「おや, 朋恵. ちょうど良かった. 雅が少し飲みすぎたようだ. 何か温かいものでも作ってきてやってくれ. 」
礼十郎様は, 私に背を向けたまま, 雅さんを抱きしめながら言った. その声は, まるで私を使用人のように扱う響きがあった. 私は, 胃の奥から込み上げる不快感を必死に抑え込んだ.
「礼十郎様, 私と貴方は婚約中です. このような行為は, 岸本家の名誉に関わります. 」
私の言葉に, 礼十郎様はカッと目を見開いた.
「この期に及んで, 幸江を盾に取るつもりか? 俺は, お前との婚約など, 最初から望んでいなかった! ずっと, 雅を待っていたんだ! 」
彼の言葉は, 私の心を粉々に砕いた. 私の五年間は, 彼の心の中でそんなにも軽かったのだろうか. 心臓が握り潰されるような激痛に, 私は息を吞んだ.
「早くしろ! 雅が吐きそうだ. 何をしている! 」
礼十郎様は, 苛立ちを隠せない様子で私を急かした. 私は, 内心で彼を嘲笑しながら, 黙ってキッチンへと向かった.
かつて, 彼が風邪をひいた時, 私は必死に看病し, 特製の酔い覚ましのスープを作ってやった. 彼はその時, 「もう二度と, 朋恵にこんなことをさせない」と, 優しく私の頭を撫でてくれたはずだ. しかし今, 私は, 彼に裏切られた雅さんのために, 同じスープを作っている.
ああ, 全てが終わる. 全て, 終わるのだ.
私は, 早くこの場を立ち去りたい一心で, 手早くスープを作った. リビングから聞こえる楽しげな声に, 耳を塞ぎたくなる衝動に駆られたが, 必死に耐え抜いた.
「朋恵さん, まさかこれ, 私が飲むとでも思ってる? 」
雅さんが, 嫌悪感を露わにして私に尋ねた. 次の瞬間, 彼女は私の手からスープの入ったボウルを奪い取り, 自らのワンピースにぶちまけた.
「きゃあああああ! 」
雅さんの甲高い悲鳴が響き渡る. ボウルは床に叩きつけられ, 砕け散った. 彼女は, 演技がかった仕草で床に崩れ落ちた.
「雅! どうしたんだ, 雅! 」
礼十郎様が, 慌ててキッチンに駆け込んできた. 彼は, 床に散らばったスープの破片と, 雅さんの服についたシミを見て, 私を睨みつけた.
「朋恵! 一体何をした! 」
礼十郎様の声は, 怒りに震えていた. 彼は, 私の言葉を聞こうともせず, ただ雅さんの言葉だけを信じた.
「雅に何をするんだ! お前は本当に悪女だな! 」
彼は, 私を悪魔でも見るかのような目で罵倒した. 雅さんは, 彼の腕に抱きつき, わざとらしく嗚咽を漏らした.
「礼十郎様, 大丈夫? 」
雅さんが, 心配そうに礼十郎様を見上げた. その視線は, 私を挑発するようにちらりと向けられた.
「朋恵は, 本当に俺を怒らせるのが得意だな. お前に, 怒る資格などない! 」
私は, 礼十郎様の言葉を無表情で聞いていた. 彼の言葉は, もはや私の心に届かなかった. 私は, 彼の心の中に, 私の居場所など最初からなかったのだと, ようやく理解した.
もっと早く, 気づくべきだった. もっと早く, ここを去るべきだった.
幸江様の誕生日が終われば, 私は完全にこの家を去る. もう, 彼の人生に一切関わることはない. そう心に誓った.
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