
叔父様は、私の元カレ
章 2
二人が階上に消えてから、やや時間が経っていた。
琴子が階段の下まで来ると、階上を見上げながら声をかけた。「智子さん、晴真は見つかったかしら?」
「はい、お義母様。見つかりました。今すぐ参ります」
智子は階下へ返事をした。
参列者がまもなく揃うとあっては、晴真も智子と事を構えるわけにはいかない。玲奈に至っては口を挟む資格すらない。三人は静かに階段を降り、前庭へと向かった。
その小さな庭の先に、一台の黒いマイバッハが静かに滑り込んできた。
智子は、晴真のネクタイが曲がり、シャツのボタンが緩んでいるのが目に入った。最後に残った情けだろうか。彼の体面を保つため、そっと手を伸ばして直してやる。
「兄さん、義姉さん」
不意に響いた男の声は、低すぎず、どこか水気を含んだような色香を帯びて、智子の耳朶を直接打った。
智子の指先がぴくりと強張る。――骨になっても忘れようのない、声だった。
振り返り、人々の向こうに目を向けた瞬間、その視線は、有無を言わさぬほど攻撃的な漆黒の瞳に絡め取られた。
男はここで彼女に会うとは想定外だったのだろう。その眼差しは鋭く底には激情が渦巻いていた。
視線がぶつかり、智子は息が詰まるのを感じた。心臓が跳ね上がり、咄嗟に赤らんだ目を逸らす。
まさか。二年前に理由も告げず一方的に自分を捨て、姿を消した元カレと、宗谷家の葬儀で再会するなんて。
それも、こんなにも見違えるほど、立派な姿で。
琴子は宗谷颯介にひとつ頷いてみせた。「あなたで全員よ。さ、中に入りましょう」
智子の傍らを通り過ぎる際、颯介はぴたりと足を止め、全身から冷気を放ちながら、感情の読めない声で問いかけた。「……彼女が?」
晴真は、微かに震える智子の手を握りしめ、答えた。「ああ、俺の恋人だ」
颯介は、ふん、と鼻を鳴らし、二人を追い越していった。
その一瞥と鼻息には、宗谷家にとって何の益にもならぬ女を選んだ甥への、侮蔑がありありと含まれているようだった。
一同が通り過ぎた後、晴真が智子に囁きかける。 「どうした?手が震えてるぞ」
智子は浅く息をし、ありきたりな嘘を吐いた。「あなたに腹を立てて、心臓が痛むの」
晴真は言葉に詰まる。「俺は……」
「さっきの方は、どなた?」智子は声を潜めて尋ねた。
晴真は眉根を寄せる。「俺の、叔父だ」
智子は凍りついた。瞳の奥に、氷のような冷たさが広がる。「……奇遇ね」
「何がだ?」
「昔、車に撥ねられて死んだ元カレがいたんだけど、その人にそっくり」
かつて海外で、素行の悪いチンピラのように拳で日銭を稼ぎ、古びた安アパートで智子の首を絞め、息もできなくなるほど激しく貪ったあの男が――。二年ぶりに再会した彼は、晴真の叔父であり、正真正銘の名家の人間になっていた。
体よく捨てられただけ。クズ中のクズだ。
晴真は智子に元カレがいたことなど初耳で、途端に不機嫌な色が顔に浮かんだ。
やがて、参列者が全員、霊堂の中へと入っていく。
晴真は智子を促し、声を落とした。「いいか、俺のそばを離れるな。……あとの話は、祖父さんの葬儀がすべて終わってからだ」
この期に及んで、晴真もようやく理性を保っていた。背後から玲奈が哀れな子犬のような視線を送ってきていたが、大勢の前で醜態を晒すことだけは避けねばならない。
今日、智子が宗谷家の未来の嫁としてこの場にいることは、ここにいる誰もが知っているのだから。
智子は晴真に連れられ、何人かの親族に紹介された。自分に向けられる値踏みするような、あるいは侮蔑の籠もった視線など全く意に介さず、ただ、颯介の前に立たされた時までは。
つい先ほど、彼女はゴシップ好きの親族たちの会話から、この『死んだはずの』元カレが、今年は神代家の令嬢との婚約が有力視されていることを耳にしたばかりだった。彼のアプローチは、かなり積極的らしい。
名家同士、二人とも素行は清らかで、共同事業も多い。まさしく、天が定めた縁なのだと。
智子は、聞いているだけで吐き気がした。
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