
私はそのクズの申し出を受け入れて出て行ったが、横江社長は目を赤くして泣いた。
章 2
「横江、 どこからこんな極上の女を連れてきた? 紹介しろよ」
「そこらの芸能人よりよっぽど綺麗じゃねえか。 大スターになれるぞ!」
「こっちに来いよ、兄ちゃんの隣に座りな……」 下卑た声が飛び交う中、栗原家の御曹司が、隣の女の腰をにやつきながら叩き、有無を言わさず席を空けさせた。
追い払われた女は、去り際に榎本真衣を憎々しげに一瞥する。
真衣は表情ひとつ変えず、そのすべてを黙殺する。 今夜の目的はただ一つ、藤井海渡という男と接点を持つこと。 こんな雑魚どもの相手をしに来たのではない。
ひとしきり野次が飛び交うのを待って、横江渉が頃合いを見計らい口を挟んだ。 「榎本真衣、うちの事務所のモデルです。 今日はたまたま休みが合ったんで、皆さんに顔見せに。 今後、何かとお世話になるかもしれませんが、その時はよろしくお願いします」
栗原がふん、と鼻で笑った。 「お前、横江渉の息がかかった人間を、わざわざ俺たちに紹介する必要なんてあるのかよ」
渉は笑って答えず、真衣に視線を流す。 「真衣、好きなところに座れ」
その視線が意味するところを、真衣は言われずとも理解していた。 男たちの好奇の視線を浴びながら、その人だかりを縫うようにまっすぐ進み、南西の隅へと向かう。
通り過ぎる間際、栗原がわざとらしく尻をずらして席を空けたが、真衣はそれに目もくれず通り過ぎていった。
「チッ……!」
栗原が苛立ちを露わにしようとした瞬間、その女が信じられないものを見るかのように、命知らずにも“あの男”の隣に腰を下ろしたのを見て、目を剝いた。
驚愕したのは彼だけではない。 その場にいた他の者たちも、まるで時が止まったかのように、誰もが息を殺して南西の隅に視線を注いでいた。
藤井海渡が帰国して一週間余り。 今夜は、栗原光一が音頭を取って開いた彼の歓迎会だった。
ここに集まっているのは、皆、幼い頃からの腐れ縁で繋がった仲間うちだ。
だが、藤井海渡という男は、馬鹿騒ぎに興じるだけの自分たちとは住む世界が違う。 祖父は政界の重鎮、叔母は外交官、父は上級大将、母は科学研究の第一人者。 そして母方の祖父に至っては、億単位の資産を動かす財界の巨頭だ。
絵に描いたようなエリート一族。 富と権力をその手に握っている。
海渡自身は控えめで滅多に人前に姿を現さない。 この名利の世界では、見えざる階級(カースト)が厳然と存在する。 光一ですら、母方の祖父の威光を借りて、ようやくこの平城市で藤井家との繋がりを保てているに過ぎない。
実のところ、今日、海渡が光一の顔を立ててこの場に来てくれたこと自体、三代分の徳を積んだおかげだとすら思えるほどだった。
ましてや、この界隈で藤井海渡が女に興味を示さず、冷淡で孤高の存在であることは誰もが知る事実。
あの女、命知らずにもほどがある。
あの方の不興を買いに行くとは!
光一の背中にじっとりと冷や汗が噴き出す。 あの無謀な女を引きずり戻そうと腰を浮かせた、その時だった。 強い力で肩を押さえつけられた。 振り返ると、渉がそこにいた。
光一は訳が分からず視線で問う。 「?」
渉は何事もなかったかのようにグラスを掲げ、淡々と言った。 「栗原さん、一杯どうだ?」
光一は目を細め、その意図を悟り、背筋に冷たいものが走った。
――こいつ、榎本真衣を贄にする気だ!
海渡が少しでも機嫌を損ねれば、 指先一つで真衣をこの平城市から消し去ることなど造作もない。 横江渉とは、
どこまでも非情な男だ。
だが、目の前で繰り広げられるであろう面白い見世物を、みすみす見逃す手はない。
万が一、海渡が本気で咎めてきても、すべてを渉のせいにすればいい。
自分が駒として扱われているとは露知らず、真衣は身を縮めるようにして男の隣に座ると、空になりかけていた彼のグラスに、自ら酒を注ぎ足した。
極度の緊張からか、手首が微かに震え、高価な酒が数滴こぼれ落ちる。
手首を濡らす冷たい感触にも構わず、真衣は慌てて頭を下げた。 「藤井様、大変申し訳ございません。 すぐに新しいものをお持ちします……」
言葉を言い終える前に、すっと目の前に一枚の紙ナプキンが差し出された。
「榎本さん、お気をつけて」 海渡の眼差しは凪いだ湖面のように穏やかで、一秒たりとも彼女の上に長く留まることはない。
そこには、噂に聞く上位者の傲慢さも、人を寄せ付けぬ冷徹さも、一片たりとも感じられなかった。 まるで、ごく親しい知人のように。
真衣は唇をきつく結び、絞り出すような声で「ありがとうございます」と礼を言った。
個室は広く、海渡が静かに過ごせるよう、光一はわざと彼の席を離れた場所に設けていた。 そのため、今、渦中の二人がどうなっているのか、こちらの喧騒からは声も聞こえず、様子もよく見えない。
彼は渉の方へ向き直った。 「お前、本気であの榎本真衣を差し出すのか?」
渉は杯を口に運ぶ手を止め、淡く笑う。 「取るに足らない私生児だ。 星奈とは比べ物にならん」 光一は舌打ちした。
先ほど彼女が通り過ぎた際にふわりと漂った甘い香りを思い出し、ふと、言いようのない哀れみが込み上げてきた。 「あの子は八年間、お前の後ろをついて『兄さん』と呼んでいただろう。 それに、榎本星奈の実の妹だぞ。 私生児だからって、それは……」
「栗原光一」 渉が冷ややかにその名を呼び、言葉を遮った。 「あいつを藤井海渡のベッドに送り込まなければ、星奈は諦めない」
光一は黙り込んだ。
他の者こそ知らぬが、光一はこの歪んだ関係の内情を多少なりとも知っている。
榎本星奈は幼い頃から、藤井海渡に嫁ぎ、良妻賢母になることだけを夢見てきた。
たとえ、彼女の幼馴染が渉であり、渉が彼女に深い想いを寄せていたとしても。
彼女は藤井家との縁談に固執した。
榎本家と藤井家の夫人が大学の同級生で、無二の親友だったという背景もある。
まだ子供たちが腹の中にいる頃から、両家の母親は許嫁の約束を交わしていた。
つまり、海渡は星奈の婚約者。 まだ確定こそしていないが、この界隈では公然の秘密だった。
特に星奈自身が、ことあるごとに海渡の婚約者然として振る舞ってきたのだ。
「気になるんだが、どうしてお前は、榎本真衣が藤井海渡のベッドに潜り込めると確信してるんだ?」光一はついに堪えきれず尋ねた。 真衣が美しいのは確かだが、海渡ほどの男なら、これまでどんな女でも見てきただろうに。
渉は遠くに視線をやったまま、その横顔からは何の感情も読み取れない。 「試してみなければ、分からないだろう?」
光一は渉に親指を立ててみせた。
榎本星奈がこの世で最も憎んでいるのは、腹違いの妹である榎本真衣だ。 真衣が触れたものは、どんなものでも欲しがらない。 それは幼い頃から変わらない彼女の性分。
渉は、その手で星奈に諦めさせようというのだ。 その非情なまでの策略に、光一はもはや感服するしかなかった。
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