
私はそのクズの申し出を受け入れて出て行ったが、横江社長は目を赤くして泣いた。
章 3
バーの頼りない照明が揺れる中、藤井海渡の広い背中はまるで壁のように、その光の大半を遮っていた。 おかげで榎本真衣は彼の影に身を潜め、好奇の視線から逃れることができた。
声をかけようと、わずかに唇を開きかけたが、彼の纏う寄せ付けないオーラを前に言葉を飲み込む。 その横顔は、真衣の存在などまるで意に介さないとでも言うように、冷ややかだった。
真衣は、誰にも聞こえないほどの小さなため息を落とした。
(本当に、厄介な人)
結局、酒席が終わるまで、二人が言葉を交わすことはなかった。 彼女は輪から外れた隅の席で、涼しい顔で談笑する海渡の姿を、ただ見つめるしかなかった。
その様子に、横江渉が気づかないはずもなかった。
苦々しく眉をひそめる彼に、隣の栗原光一が嫌味っぽく囁く。 「どうやら、君の当ては外れたようだな」
「……俺が榎本真衣を買い被っていたらしい」 渉は無表情のまま、そう吐き捨てた。
これで二度目だ。
藤井海渡という男は、そもそも彼女のようなタイプを好まない。
散会の刻、真衣は渉の後ろを歩きながら、淡い期待を込めて時折振り返る。 だが、海渡の視線が自分と交わることは、ついぞなかった。
上機嫌に酔った光一が、馴れ馴れしく海渡の肩を叩こうとする。 だが、その手は海渡の纏う近寄りがたい空気に阻まれたかのように、空中でぴたりと止まり、気まずげに下ろされた。 「藤井さん、俺たち幼馴染じゃないですか。 また集まりましょうよ!……あ、それと、例の件です! 市の東側プロジェクトの……どうか、お心に留めていただけると!明日、企画書を藤井グループ様までお届けに上がりますので!」
これこそが、今夜光一がこの席を設けた真の目的だった。
「ええ」 海渡は表情一つ変えずに応じる。 「栗原さんがわざわざお越しになるには及びません。 後日、こちらから秘書に取りに行かせます」
「いえ、 そんな! お手間を取らせるなんて滅相もございません!」 光一が恐縮しきって頭を下げるのを、 海渡は感情の乗らない 「いえ」
の一言で制した。
すぐ後ろに立つ真衣には、そのやり取りが手に取るようにわかった。 今にもひざまずきそうな光一の姿に、思わず心の中で「馬鹿」と毒づく。
秘書に取りに行かせる、それはつまり「正規のルートで審査する」という、ビジネスライクな宣告に他ならない。
そこには、幼馴染への情けなど一欠片も含まれていないというのに。
この愚か者は、そのことにも気づいていないらしい。
「榎本真衣」 不意に呼ばれ、 真衣ははっと顔を上げた。 だが、
その視線は呼びかけた渉ではなく、 藤井海渡へと吸い寄せられる。
けれど、彼の黒曜石のような瞳に、自分の姿はやはり映り込んではいなかった。
「藤井さんをお送りしろ」 渉が、 有無を言わさぬ口調で命じた。 その魂胆はあまりにもあからさまだ。
願ってもない申し出に、真衣の心臓が小さく跳ねる。 海渡へと半歩踏み出した、その時。
「榎本さんには及びません」 冷たい声が、彼女の動きを縫い止めた。 伏し目がちだった瞳がすっと持ち上がり、初めて真っ直ぐに真衣を射抜く。
その視線に射竦められ、真衣は首筋に氷を当てられたような悪寒を覚えた。
海渡はなおも彼女を見つめたまま、言葉を続ける。 「少し、処理すべきことがありますので」
渉は不快感を露わに顔を歪めたが、すぐにそれを押し殺した。 海渡の背中を見送ると、冷え冷えとした視線で真衣を睨めつける。 「真衣、お前がこの程度のこともできないとは思わなかったぞ」
「だって、彼が私に興味ないんだもの。 どうしようもないじゃない」
真衣は、ぱちりと無邪気に瞬きをして見せた。 渉が失望を隠しもせずに何かを言いかけた、その時。 背後から、鈴を転がすような、しかし今は怒気を含んだ美しい声が響いた。
「榎本真衣!」
その声は、真衣にとって聞き慣れすぎた響きを持っていた。
(ちょうどいい。 これで逃げられる) 口の端に、 計算高い笑みを浮かべると、 真衣はそれを好機とばかりに、
くるりと身を翻して走り出した。
燃えるような真紅のドレスを纏った榎本星奈が、厳しい詰問の表情を浮かべて立ちはだかる。
渉は彼女の前に立ち、 なだめるような口調で言った。 「星奈、どうしてここに?」
「よくも聞けたものね!」 星奈は彼の言葉を鼻で笑い飛ばした。 「私がもう少し遅かったら、この女は義兄さんのベッドに潜り込んでいたんじゃないの!?」
渉の眉間に深いしわが刻まれる。 「君はまだ、藤井海渡と結婚したわけじゃないだろう!」
渉の言葉など耳に入らないとばかりに、星奈は彼を乱暴に突き飛ばし、真衣の後を追った。
海渡が消えた廊下を、真衣は夢中で走った。 どこまでも続くかのような長い廊下。
息を切らして壁に手をつく。 背後から迫る星奈の甲高い叫び声が、呪詛のように耳にまとわりついてきて、苛立ちと焦りが募る。
真衣は眉をひそめ、 やけっぱちになって近くのドアに、 もたれかかるように身体を預けた、 その瞬間だった。 ぐらりと傾いだ身体が、 内側から開かれたドアの向こうへ吸い込まれる。 背中が、 ひやりと冷たい、
けれどどこか嗅ぎ覚えのある香りを纏った硬い胸板に受け止められた。
頭上から降ってきたのは、低く、そして揶揄するような響きを含んだ声だった。
「ふっ……、榎本さんは、人の懐に飛び込むのが随分とお好きなようだ」
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