
彼を捨てて掴んだ、甘い未来
章 3
新垣由紀子 POV:
新しい店舗の契約を終えた後も, 私は気を抜くことなく, 開店準備に没頭した. 毎日, 朝から晩まで, 内装のデザイン, 厨房設備の選定, メニュー開発, そして何よりも大切な, 祖母のレシピノートの再構築に時間を費やした.
私は, 真弘の店で使われていたレシピノートを, 私の新しい店のために, より洗練されたものにする必要があった. それは, 祖母の想いを引き継ぎつつも, 私自身の感性を加える作業だった.
「由紀子さん, またこんな時間までですか? 」
閉店後のカフェで, 私が試作を続けていると, 同僚の佐藤さんが声をかけてくれた. 佐藤さんは, 真弘のカフェで共に働いてきた仲間で, 私が独立すると聞いて, すぐに「由紀子さんの夢を応援したい」と言って, 私の店に来てくれた数少ない友人だ.
「ええ, もう少しで完成しそうなんです」私は微笑んだ.
佐藤さんは, 温かいコーヒーを私に差し出してくれた.
「無理しすぎないでくださいね. 由紀子さんが倒れたら, 元も子もないですから」
彼の優しさが, 私の心にじわりと染み渡った.
「ありがとう, 佐藤さん」私はコーヒーを受け取った.
「そういえば, 由紀子さん, 知ってます? 」佐藤さんは言った. 「藤代さんのカフェ, 最近ちょっと大変みたいですよ」
私の心臓が, ドクンと跳ねた. 佐藤さんは, 真弘のカフェの現状を知っているようだった. 私は, 彼の言葉に耳を傾けた.
「なんでも, 最近, 看板商品のケーキの味が落ちたって, お客さんからの苦情が増えてるみたいで」佐藤さんは言った. 「それに, 黒木さんも, なんだか元気がなくて…」
私の心臓は, さらに強く脈打った. 看板商品のケーキ. それは, 私が祖母のレシピノートを使って開発したものだ. 私が去った後, 亜弥がそれを再現しようとしているのだろうか.
私は, 佐藤さんの言葉を聞いて, 心の中でつぶやいた.
(自業自得よ)
私は, 佐藤さんの言葉に何も言わず, コーヒーを口にした.
その日の夜, 私は自宅で休憩していた. SNSを開くと, 目に飛び込んできたのは, 真弘と亜弥のツーショット写真だった.
場所は, 私が真弘と初めてデートした, 思い出のレストラン. 真弘は, 亜弥の肩を抱き, 以前私に見せていたのと同じ, 甘い笑顔を浮かべていた.
亜弥の投稿には, 「真弘さんと素敵なディナー. これからも二人で頑張ります! 」というメッセージが添えられていた.
私の心臓が, ズキリと痛んだ. それは, もう彼への愛情からくる痛みではなかった. それは, 過去の私が味わった, 裏切りの痛みだった.
その写真を見た瞬間, 私の体に冷たい電流が走った. 胃の奥からこみ上げてくる吐き気に, 私は思わず口元を覆った.
その日は, 偶然にも, 私が真弘にプロポーズされた日と同じ日付だった. 彼が私に永遠を誓い, 一緒に夢を追いかけると約束した日. その同じ日に, 彼は別の女性と, 私との思い出の場所で, 親密な時間を過ごしていたのだ.
私は, スマホを床に投げつけた. スマホは, 無残な音を立てて砕け散った.
私の目から, 涙が溢れ出した. それは, もう彼への未練からくる涙ではなかった. それは, 私自身の愚かさに対する, 悔し涙だった.
私は部屋を見回した. 真弘との思い出の品は, ほとんど残っていなかった. しかし, 一つだけ, 彼の写真立てが残されていた.
私は, その写真立てを手に取った. 真弘と私が, 満面の笑みで写っている. 私たちの未来が, 明るく輝いていると信じていた頃の写真だ.
私は, その写真立てを握りしめ, そのままゴミ箱に投げ入れた. ガシャン, と音を立てて, ガラスが割れる音が響いた.
その音は, 私の心の中で, 過去との完全に決別を告げる, 終止符の音だった.
私は, 大きく息を吐いた. 私の心は, 驚くほど穏やかになっていた. 私は, もう彼に囚われることはなかった.
その夜, 私はぐっすりと眠った. 翌朝, 私は出かける準備をしていた. 新しい店の開店準備は, 着々と進んでいた.
その時, 私の携帯電話が鳴った. 画面には, 実家の母の名前が表示されていた.
「もしもし, お母さん? 」私は少し緊張しながら電話に出た.
「由紀子! どういうことなの! 」母の声は, 怒りに満ちていた. 「真弘くんと別れたって, 本当なの? ! 」
私は, 母の言葉に驚いた. なぜ母がこのことを知っているのか.
「ええ, 本当よ」私は冷静に答えた.
「何を勝手なことを言ってるの! 」母の声は, さらにヒートアップした. 「真弘くんは, あんなにいい人なのに! 由紀子のことを, ずっと前から支えてくれていたでしょう? ! 」
母の言葉は, 私の心を抉った. 彼女は, 真弘の表向きの顔しか知らない. 私がどれだけ彼に傷つけられてきたか, 彼女は知らないのだ.
「お母さん, もう終わったことなの」私は言った. 「私には, 私自身の人生があるから」
「ふざけないで! 」母は叫んだ. 「由紀子, あなた, もういい歳なのよ! 真弘くんみたいな, 安定した相手は, もう二度と現れないわよ! 」
母の言葉は, 私をまるで価値のないもののように扱った. 私は, 彼女の言葉に深い絶望を感じた.
「お母さん, もういい加減にして」私は言った. 「私の人生は, 私が決めることよ」
「由紀子! 」母は, まだ何かを言おうとしていた.
私は, 静かに電話を切った. 私の手は, 微かに震えていた.
私は, 携帯電話を握りしめ, ベランダに出た. 夜風が, 私の頬を冷たく撫でた.
(私は, どこへ向かっているのだろう? )
私の心は, 不安と孤独感に包まれていた. 真弘との別れ, そして母からの非難. 私は, まるで一人で荒野をさまよっているかのようだった.
その時, 私の携帯電話が再び鳴った. 今度は, 慎和さんからだった.
私は, 一瞬ためらった. しかし, 私は電話に出た. 慎和さんの声は, 私の心に安堵をもたらした.
「もしもし, 慎和さん? 」
「由紀子さん, 今, お時間よろしいでしょうか? 」慎和さんの声は, 少しだけ急いでいるようだった. 「新しい物件の件で, 少しお話したいことがあります」
私の心臓が, ドクンと跳ねた. 新しい物件. それは, 私の夢への一歩だ.
「はい, 大丈夫です」私は答えた. 「今から, どちらへ向かえばいいですか? 」
「実は, 由紀子さんの夢にぴったりの物件が見つかりました」慎和さんの声は, 興奮に満ちていた. 「場所は, 由紀子さんがずっと憧れていた, あの商店街の一角です」
私の心臓が, さらに強く脈打った. 私がずっと憧れていた商店街. そこは, 私がパティシエを目指すきっかけとなった, 祖母のケーキ屋があった場所だ.
「本当ですか! ? 」私は思わず叫んだ.
「はい」慎和さんは言った. 「しかも, オーナーさんも, 由紀子さんにぜひ, と言ってくださっています」
私の目から, 熱いものがこみ上げてきた. それは, 喜びの涙だった.
「慎和さん, ありがとうございます! 」私は言った. 「私, 頑張ります! 絶対に, 素晴らしいお店を作ってみせます! 」
「はい, 由紀子さんならできます」慎和さんは言った. 「由紀子さんの才能を, 世界中の人に知ってもらいましょう」
私は, 慎和さんの言葉に, 思わず笑みがこぼれた. 私の心は, 希望に満ち溢れていた.
電話を切った後, 私は空を見上げた. 満月が, 優しく私を見守っているようだった.
(私は, もう一人じゃない)
私の心は, そうつぶやいた. 私は, 自分の才能を信じ, 私の夢を応援してくれる人たちがいる. 私は, もう誰かに依存することはない. 私は, 私自身の力で, 私の人生を切り開いていく.
私は, もう振り返ることはない.
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