
彼の裏切り、そして彼女の揺るぎない愛の物語
章 2
病院の部屋は、亜希子には異質に感じられる、無理に作られた陽気さでざわついていた。
美咲はベッドの上で体を起こし、鼻には繊細な包帯が巻かれ、まるで壊れやすい人形のようだった。
潤は彼女のために、一心不乱にリンゴの皮を剥いていた。ナイフの刃は細心の注意を払って動かされている。
大和は彼女の枕を整えていた。その動きは不器用だが、真剣だった。
亜希子はドアのそばに立っていた。目に見えない壁が、彼女とその居心地の良さそうな家庭的な光景を隔てていた。
彼女は別れを告げに来たのだ。
単なる旅行のための別れではない、本当の、最後の別れを。
そして彼らは、そのことさえ知らなかった。
「ハワイ、ずっと行ってみたかったの」美咲は少し夢見るような声で言った。「ビーチとか、火山とか…まるで楽園みたい」
「じゃあ、行こう」潤はすぐに言った。リンゴから目を上げずに。「旅行できるようになったらすぐに。快気祝いだと思って」
「ああ、潤さん、最高」美咲は甘えた声で言い、彼に腕を伸ばした。
大和は満面の笑みを浮かべた。
「最高のリゾートを予約するよ。ファーストクラスで。美咲のためなら何でも」
今がチャンスだ。最後のチャンス。
「潤兄さん、大和兄さん」亜希子は、思ったよりも強い声で言った。「話したいことがあるの」
三対の目が彼女に向けられた。潤の目は焦れたように。大和の目は警戒するように。美咲の目には、挑戦的な光が宿っていた。
「私、家を出るわ」亜希子は言った。「あるポジションを引き受けたの。それは…長期のプロジェクト。しばらくいなくなる」
大和は鼻で笑った。
「まだ大げさなことを言ってるのか。どこへ行くんだ?図書館への週末旅行か?」
「違う」亜希子の心は沈んだ。彼らは聞いていない。聞こうとさえしていない。「研究フェローシップよ。国立先端医療研究センターの」
潤はリンゴの皮を剥く手を止めた。
「国立先端医療研究センター?それはすごいな。だが、あそこは簡単にポジションをくれるような所じゃない。申請には何ヶ月も、何年もかかるはずだ」
「桐島博士から直接連絡があったの」彼女は声を震わせないように努めながら説明した。「例外を設けてくれたのよ」
「まあ、亜希子さん、それは素晴らしいわ!」美咲は、少し明るすぎる笑顔でさえずった。「ハワイから帰ってきたら、みんなでお祝いしなくちゃね!」
彼女は意図的に要点を外し、会話を自分自身に、亜希子を含まない彼らの計画へと引き戻していた。
「それが問題なの」亜希子は、募る絶望感の中で続けた。「明日、発つの。15年間」
部屋は静まり返った。
潤はナイフとリンゴを置いた。大和は口を少し開けたまま、彼女を見つめていた。
「15年?」潤の声は平坦で、信じられないという響きがあった。「何を言っているんだ?15年もかかるプロジェクトって何だ?」
「機密事項よ」彼女は言った。
大和は短く、乾いた笑い声を上げた。
「機密事項?なんだそれは、スパイ映画か?馬鹿げてる。金のことで怒ってるから、注目されたいだけだろう」
「もうお金のことなんて関係ない」亜希子は、すべてに疲れ果てて言った。「これは私の人生。私のキャリアよ」
「じゃあ、家族を捨てるって言うのか?」大和の声が大きくなった。「俺たちが経験してきたことすべてを忘れて?ただ出て行くって言うのか?」
「出ていけって言ったのはあなたよ」亜希子は静かに彼に思い出させた。「思いやりが持てないなら、ここにいるべきじゃないって」
大和の顔は青ざめ、そして新たな怒りで紅潮した。
「15年もなんて意味じゃなかった!」
「あなたがどういう意味だったかなんて関係ない。言ったのはあなたよ」亜希子は感情のない声で答えた。「私はあなたたちを捨てるんじゃない。自分の人生を始めるの。あなたたちが私から奪った人生を」
空気は緊張で張り詰めていた。美咲は三人の間を行き来する視線を送り、その目にはパニックの光がちらついていた。これは彼女の計画通りには進んでいなかった。
「それで、どこに住むんだ?」潤は、現実的なCEOの口調に戻って尋ねた。「ただ家を出るなんてことはできないぞ」
「研究所が住居を提供してくれる」亜希子は言った。
「じゃあ、ここのお前の部屋は?」大和は挑むように言った。「どうするつもりだ?15年間も空けておくのか?」
美咲はチャンスを見つけた。
「彼女はもういらないのよ」彼女は静かに、目に涙を浮かべて言った。「私たちを置いていくんだもの。私は…私はずっと客間で過ごすしかないのね」
その含みは空中に漂った。亜希子は自分の家、自分の家族を捨て、哀れな孤児である美咲は仮の部屋に追いやられる、と。
完全な疲労の波が亜希子を襲った。もう戦うのはやめだ。
「美咲が私の部屋を使えばいいわ」彼女は、灰を噛むような味のする言葉で言った。「今夜中に荷物をまとめる。その方がいい。客間より眺めもいいし、広いから」
潤と大和は、呆然として彼女を見つめていた。彼らは彼女が戦い、口論し、自分の部屋を返せと要求すると予想していた。この冷静で合理的な降伏は予想していなかった。
それは彼らを不安にさせた。
「ほらな」大和は言ったが、その声には以前の確信が欠けていた。「俺たちに罪悪感を抱かせようとしてるだけだ。いつもの亜希子の手口だ」
しかし、彼自身もそれを信じているようには見えなかった。
亜希子は彼らの混乱し、怒った顔を見た。彼らは理解していない。彼らの間に開いた、もはや埋めることのできない溝が見えていない。
彼らはまだ、これが子供じみた喧嘩だと思っている。
彼女が、壊疽を起こした自分の一部を切除する手術を行っていることなど、彼らは知る由もなかった。
「荷造りをしなくちゃ」彼女はそう言って、立ち去ろうとした。
「亜希子、待て」潤が、奇妙な不確かさの混じった声で呼び止めた。
彼女はドアの前で立ち止まったが、振り返らなかった。
「馬鹿な真似はするな」それは謝罪ではなかった。懇願でもなかった。それは習慣から生まれた、命令だった。
彼女は何も言わなかった。ただ部屋を出て、以前よりも重く、居心地の悪い沈黙の中に兄たちを残した。
無機質な病院の廊下を歩きながら、彼女は両親が亡くなった夜のことを思い出した。
潤は彼女を強く抱きしめ、彼自身の悲しみは palpable で、「リッシー、俺がずっとお前を守ってやる。約束だ」と囁いた。
大和は一晩中、一言も発さずに彼女のそばに座り、彼女が泣く間、ただ堅固で慰めとなる存在でいてくれた。
約束。
それらはただの言葉だった。空気に溶けて、何も残さずに消えていく息吹。
彼女の目は痛んだが、泣くのをこらえた。もう涙は残っていなかった。
家に戻ると、彼女は冷たい効率の良さで部屋を片付けた。
教科書、研究ノート、数着の着替え、そして両親の写った額入りの写真を一枚だけ詰めた。
それ以外のもの――子供の頃の思い出の品、兄たちからの贈り物、記憶――はすべて置いていった。
20年来の家政婦である田所さんが、戸口から不満げな顔で見ていた。
「あの方たちには何の権利もありませんよ、亜希子お嬢様」彼女は、憤りを抑えた低い声で言った。「お嬢様の学費を渡してしまうなんて。しかも、あの方のために」
彼女は、不在の美咲のいる方角を顎でしゃくった。
「いいのよ、田所さん」亜希子は静かに言った。「私は出ていくから。もう私のことで心配する必要はなくなるわ」
田所さんの目が大きく見開かれた。
「出ていかれる?ずっと?」
亜希子は頷き、スーツケースのジッパーを閉めた。
「ずっとよ」
重いスーツケースを持ち上げようとしたちょうどその時、戸口に影が差した。
潤がそこに立っていた。その顔は読み取れない。彼は病院から帰ってきたのだ。
そして、一人ではなかった。
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