
社長の冷酷な最後通牒、私の成り上がり
章 3
玲奈 POV:
樹里は、まるで邪悪な女神が人間の饗宴に降臨したかのように、社員食堂に乗り込んできた。
陽気な昼食時のおしゃべりは静まり、皆の視線が、温かい料理が並ぶカウンターへと向かう彼女の傲慢な姿を追っていた。
彼女は、丁寧に盛り付けられた料理の数々を、心底嫌悪に満ちた表情で見渡した。
「これは何?」
彼女はカウンターの向こうにいるシェフに尋ね、長くて赤い爪でローストチキンをつついた。
「これ、オーガニックなの?」
シェフは、優しい目をした恰幅の良い男性で、制服には「オースティン」と刺繍されていた。
彼はプロとして冷静に対応した。
「地元産でございます、お客様。とても新鮮ですよ」
樹里は鼻で笑った。
彼女は、とんでもなく高価なバーキンの中から、宝石がちりばめられた小さな容器を取り出した。
「結構よ。私は自分のを持ってきたから」
彼女が容器を開けると、中には黒く輝く魚の卵のようなものが入っていた。
キャビアだ。
「こんなもの…食べられるわけないじゃない」
彼女は、何百人もの従業員のために用意された料理に、見下すような視線を送りながら言った。
「でも、今日は気前がいいから。分けてあげるわ」
誰かが反応する前に、彼女はビュッフェ台に置かれた大きなパスタサラダのボウルに、キャビアの容器を丸ごとぶちまけようとした。
「お客様、おやめください!」
オースティンは驚くほどの速さで動き、彼女を制止するように、ボウルの上にしっかりと手を置いた。
彼の声は穏やかだったが、岩のように揺るぎなかった。
「そのようなことは、おやめください」
「なんですって?」
樹里の声が甲高くなった。
「会社の規則です。衛生管理上の規定で」
オースティンははっきりと述べた。
「外部からの食品、特にアレルギーを引き起こす可能性のあるものを、一般の料理に混ぜることはできません。重度の魚アレルギーを持つ従業員がいるかもしれません。これは、重大なリスクです」
彼は正しかった。
それは食品サービスにおける第一のルールだ。
私が会社の運営マニュアルに書き加えるのを手伝ったルールだった。
樹里は、まるでこれから潰そうとしている虫でも見るかのように、彼を見つめた。
「これがいくらするか、分かってるの?」
彼女はキャビアの容器を振りながら、嘲笑した。
「このちょっとしたおやつが、あなたの週給よりも価値があるのよ。私が、あなたの哀れなサラダを格上げしてあげようっていうの」
「お客様、申し訳ありませんが、料理の列から離れていただけますか」
オースティンの口調は、揺るぎなかった。
彼は、彼女の傲慢さの嵐に対して、冷静なプロ意識の柱として立っていた。
「あなたが私に指図するな」
彼女は、拒絶されたことに怒りを爆発させ、顔を歪めて罵った。
彼女は引き下がるどころか、信じられないほど無謀な行動に出た。
スマートフォンを取り出し、短縮ダイヤルを押したのだ。
一秒後、康太の顔が画面に現れた。
背景は見間違えようもなかった。
街を一望できる、メインの会議室だ。
彼はプレゼンの真っ最中だった。
今後5年間の資金を確保できるかもしれない、アペックス・ベンチャーズへのプレゼンだ。
「康太さん、あなた」
樹里の声は、瞬時に傷ついた子供のような声に変わった。
「みんな、私にすごく意地悪なの」
康太の表情は、最初は集中して真剣だったが、甘やかすような心配の色に変わった。
「樹里?どうしたんだ?今、大事な話の最中なんだが」
「分かってるわ、邪魔して本当にごめんなさい」
彼女は、毅然としたシェフと、社員食堂に広がる不穏な空気が見えるように、スマートフォンの角度を調整した。
「でも、あなたのところの社員が…私をいじめるの。この男の人」
彼女はスマートフォンをオースティンに向けた。
「私にランチを食べさせてくれないの。私を怒鳴りつけてるのよ」
オースティンは一度も声を荒らげていない。
「何だって?」
康太は眉をひそめた。
「彼に電話を代わってくれ」
樹里の唇が、勝利の笑みに歪んだ。
彼女はオースティンにスマートフォンを差し出す。
「CEOが、あなたとお話したいそうよ」
オースティンは、無表情でスマートフォンを受け取った。
康太の声が聞こえてきた。
もはや温かくも甘やかすようでもなく、冷たく鋭い声だった。
「一体何をしているんだ?」
康太の声が、小さなスピーカーから響いた。
「彼女の好きなようにさせてやれ。分かったか?」
オースティンの顎が引き締まった。
「社長、失礼ながら申し上げます。これは衛生管理規定の違反です。重大な安全上のリスクとなります」
「衛生管理規定なんてどうでもいい!」
康太の声は、苛立ちで大きくなった。
「私が気にしているのは、樹里が幸せかどうかだ。今すぐ彼女に謝って、彼女が望むものを何でも与えろ。分かったな?」
社員食堂全体が静まり返り、この公開処刑を見守っていた。
従業員たちは、トレーを手にしたまま凍りつき、その顔には恐怖と不信が入り混じっていた。
スマートフォンは樹里の手に戻された。
彼女は、喜びで震えているようだった。
「分かったでしょ?」
彼女はオースティンに囁いた。
そして、彼女はスマートフォンのカメラを反転させ、静かに見守る従業員たちの顔をゆっくりと映し出し、最後に私に焦点を合わせた。
私は、火傷を負った手がまだズキズキと痛む中、この事態の結末を見届けるために、彼女の後を追ってきていた。
「康太さん、みんな私をじっと見てるの!みんな、彼の味方なのよ!」
彼女は、喉に詰まったような偽りの嗚咽を漏らしながら叫んだ。
「みんな、私のことが嫌いみたい。エントランスにいた、自分で火傷した女の子もここにいるわ。きっと、彼女が首謀者よ!」
小さな画面に映し出された康太の顔が、硬くなった。
彼はもはや、ただ苛立っているだけではなかった。
激怒していた。
この騒ぎが、彼の大事な瞬間を邪魔していることに。
彼の権威が、疑問視されていることに。
そして、私がそこにいることに。
画面が揺れ、樹里は意図的にスマートフォンを傾け、会議テーブルの向こうに座るスーツ姿の男たちを一瞬映し出した。
投資家たちだ。
彼は、会社の未来を握る人々の目の前で、自分の社員たちを、生中継で辱めている。
すべては、あの性悪な女をなだめるために。
裏切りは、物理的な打撃のように、私の肺から空気を奪った。
これはもはや、こぼれたコーヒーやキャビアの問題ではない。
彼のリーダーシップにおける根本的な欠陥、会社全体を飲み込みかねないほどの、巨大な盲点の問題だった。
「もういい」
康太の声は氷のようだった。
彼はスマートフォンのスピーカーを通して、社員食堂全体に語りかけた。
「お前たち全員、如月様に謝罪しろ。今すぐだ。一列に並んで、彼女を不快にさせたことを謝るんだ」
彼はカメラをまっすぐに見つめ、その視線は私の目を捉えた。
「お前。新人プログラマー。お前から始めろ。樹里さんに謝れ。今すぐ」
世界が、ゆっくりと動いているように感じられた。
冷蔵庫の低い唸り、遠くでフォークが落ちる音、耳の中で脈打つ血の音。
彼は、彼の会社の共同設立者であり、婚約者である私に、この女のために公衆の面前で恥をかくよう命じている。
彼は、この瞬間、すべてを捨てて彼女を選んだ。
社員たちの尊厳を。
会社の理念を。
そして、私を。
約束は破られた。
私たちが共に築くはずだった会社の夢は、粉々に砕け散った。
私は一歩前に進み、スマートフォンのカメラの中心に立った。
赤く腫れ上がり、すでに水ぶくれができ始めている手を掲げた。
痛みは、胸に開いた大きな傷に比べれば、鈍く遠い疼きに過ぎなかった。
私が口を開いた時、その声は危険なほど静かだった。
「康太さん」
私は、彼のデジタルな姿に視線を固定したまま言った。
「本気?本当に、心の底から、それが私に出したい命令なの?」
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