
花嫁はひとりきり、愛は戻らない
章 3
望月颯斗は小さくうなずいた。「君の話を聞かせて」
「…二年。 二年後になっても、まだ私たちの関係を世間に公表する気がないなら……その時は、きれいに別れたい。お願い、私に自由をちょうだい」 胸が張り裂けそうになるのを堪えて、桐原千景は一語一語、噛みしめるように言葉を紡いだ。
「……わかった、約束するよ」
だけどなぜだろう、その言葉が彼の心を落ち着かせるどころか、妙な不安をかき立ててくる。
「…ありがとう」
桐原千景は手のひらを強く握り締めた。爪が食い込む痛みが、胸の奥にまでじわじわと染み込んでいくようだった。
二年。それが、彼女が自分に与えた最後の猶予だった。
十五のときから、今年で八年。彼を想い続けてきた。
あと二年経てば、ちょうど十年になる。
十年――それはあまりにも長い年月だ。氷でさえ溶け、石でさえぬくもりを宿す。
もしそのときになっても、颯斗が彼女を愛してくれなかったなら……
彼女は身を引いて、彼を自由にしてあげたいと思っている。
――でも、本当は。そんな日なんて、永遠に来なければいいのに。ずっと彼の妻でいたい。望月夫人として、彼のそばにいられたら、それだけで幸せなのに。
…
望月颯斗が出勤したばかりの頃、桐原千景のもとに、望月伸子――颯斗のおばあさんから電話がかかってきた。
「千景、今日はお休みなんでしょう?早く帰ってらっしゃい。あなたの好きなご飯を用意させたのよ。今さっき空輸されたばかりで、とっても新鮮なの!」
「はい、すぐ帰ります」
身支度を整えた千景は、急いで望月家へと向かった。
邸宅に着いて車を降りたそのとき、不意に頭がふらついた。
すかさずそばにいた運転手が彼女を支える。「奥さま、お気をつけて。お身体の具合が優れませんか?」
千景はゆっくりと深呼吸をし、意識を整える。「ちょっと急に立ち上がったせいかもしれないわ。昔から少し低血糖気味なの。たぶん大丈夫よ」
最近、どうにも身体の調子が優れない。
思えば、少し前に夜更かしが続いて体を酷使しすぎたのだろう。
結婚を控えた今、しばらくは無理せず養生するべきかもしれない。
リビングに入ると、桐原千景の目にまず映ったのは望月蘭の姿だった。
「お母様」 彼女は丁寧に挨拶する。
だが望月蘭は彼女を快く思っておらず、当然ながら笑顔ひとつ見せない。
一目見るなり、冷ややかな口調で言い放つ。「おばあさまが昼食にって呼んでたのよ。今、何時だと思ってるのよ?」
「ちっとも時間を気にしないなんて!」
桐原千景はうつむいたまま、返す言葉が見つからなかった。
そのとき、不意に手のひらがあたたかくなった。
望月伸子が杖を突きながら、もう一方の手で千景の手をそっと包み込み、望月蘭をやさしく見つめながら言った。「千景はもともと素直な子ですから、きっと何か事情があったのでしょう。気にすることはありませんよ」
「それに、お昼ご飯まではまだ時間がありますし、遅刻にもなりませんわ」
その言葉を聞いた瞬間、千景の目元がじわりと熱くなった。
彼女が生まれたとき、母親はすでに亡くなっていた。手術台の上で命を落としたのだ。
だから、千景は一度も母親のぬくもりを知らずに育った。
あの冷たい父親のことなんて、もうどうでもいい。
桐原千景にとって、本当のぬくもりは、祖父母だけがくれたものだった。
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