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その令嬢、多才につき。 の小説カバー

その令嬢、多才につき。

かつて命を救われた恩を返すため、水野海月は事故で植物状態となった藤本暁の元へ身代わりとして嫁いだ。類まれなる医術を駆使して彼を完治させ、二年にわたり献身的に尽くしてきた彼女だったが、その想いは報われない。暁の「本命」である女性が帰国した途端、彼は無情にも離婚を突きつけたのだ。海月は潔く身を引き、名家を追われた元妻として世間の嘲笑を浴びることになる。しかし、誰も彼女の真実の姿を知らなかった。圧倒的な実力を誇るレーサー「moon」、世界を魅了するデザイナー「Xi」、伝説のハッカー「M」、そして名高き神医。そのすべてが彼女の隠された顔だった。正体が次々と明らかになるにつれ、暁は己の過ちに気づき、跪いて復縁を乞う。だが、海月の前に一人の若き総帥が現れ、彼女を抱き寄せて宣言した。「失せろ、彼女は俺の妻だ」。あまりに多才な令嬢を巡る、後悔と溺愛の物語が幕を開ける。
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2

薄葉怜は言った。「海月ちゃん、私はあの湖畔の別荘が欲しいの。あなたは別のを選んでくれないかしら。あそこは、私と暁兄さんの新居にしたいの」

彼女は恥じらうように藤本暁の胸に顔をうずめた。「もう何年も前から予約してあるんだから」

暁は昔を思い出し、心を動かされたようだった。

それを聞いた水野海月は、低く笑った。

「何を笑っている?」

暁が訝しげに尋ねた。

この女も妙なものだ。ここまで言われて、まだ笑うとは。

怜は唇を尖らせ、暁の身体に寄りかかった。大きく開いたシャツの襟元から、白くきめ細やかな肌がのぞく。彼女が何気ない仕草で髪をかき上げると、案の定、暁の視線はそちらに引き寄せられた。 彼の手が伸び、彼女の肩を抱いた。

海月は冷ややかに言い放つ。「自分が馬鹿だったから笑っているの」

彼女は言うなり、暁が受け取った水の入ったグラスをひったくり、二人に向かってその中身を潑ね付けた。

頭からぬるま湯を浴びせられ、二人は信じられないといった表情を浮かべた。

暁は怒りを抑えきれずに叫んだ。 「水野海月、気でも狂ったか?!」

海月は立ち上がり、背筋をまっすぐに伸ばした。「藤本さんは金口玉言ですものね。くださるならいただくし、くださらないなら、それで結構ですわ」

怜は暁に甘やかされて育ったため、元来気性が激しい。普段か弱く虐げられているように見せているのは、男の庇護欲を掻き立てるための演技に過ぎなかった。

彼女は立ち上がると、海月を荒々しく突き飛ばした。「海月ちゃんなんて呼んであげたのは、こっちが譲ってあげたからよ。 自分の身分をわきまえなさいよ。 よくも私と暁兄さんにこんな真似ができたわね?」

くるりと向き直り、暁の胸にすがりつく。「暁兄さん、水野海月はあんまりだわ。ちゃんと思い知らせてやらなきゃ」

彼女は顔を上げ、可哀想な子猫のように暁を見つめた。「髪も服もびしょ濡れになっちゃった」

濡れた白いシャツが肌にぴったりと張り付き、しなやかな体の曲線を露わにしていた。

海月は落ち着き払って二人を眺めていた。まるで道化師の芝居でも見ているかのようだった。

「私も別荘や財産をくださいとお願いしたわけではありません。藤本さんは万貫の富をお持ちなのに、こんな些細なことを惜しむなんて。私にその価値がないということでしょう」

自嘲するような口調で、言葉自体は柔らかく攻撃性のないものだったが、暁はふと、目の前に立つこの女の纏う雰囲気ががらりと変わったように感じた。

彼は歯を食いしばり、顔の水を拭うと、薄葉怜に言った。「俺名義の別荘はまだたくさんある。今度また見て回って、気に入ったものがあれば、どれでも直接君の名義にしてやる」

しかし、怜はまだ海月への恨みを忘れていなかった。暁兄さん以外に自分をぞんざいに扱う女など許せない。ましてや、その相手が暁兄さんに好かれていない元妻だなど、もってのほかだった。

彼女は怒りのあまり、海月を指さして詰問した。「聞いているの。渡すの、渡さないの?」

海月はきっぱりと断った。「渡さない」

パァン――!

鋭い風切り音とともに、平手が海月の頬を激しく打ちつけた。

「いい気にならないで。あんたなんか、暁兄さんの寵愛がなければ、水野家に戻ったって虐げられるだけの人生じゃない!どこの馬の骨とも知れない成り上がりのくせに!」

暁の眼差しが一瞬暗くなったが、すぐに平静を取り戻し、淡々と言った。「怜、関係ない人間のために腹を立てるな」

海月は頬を押さえた。打たれた場所が火のように熱い。舌先でそっと触れると、微かな血の味がした。彼女は顔を上げ、怜を見つめる。「育ちの悪い人……」

怜は暁の胸に身を寄せ、得意げに言った。「私には暁兄さんがいるわ。あんたには何もない。あんたは飼い主に追い出された犬よ……きゃあ!水野海月!」

ガシャン!

海月はテーブルの上の花瓶を掴み、そのまま投げつけた。磁器はソファの横のタイルに叩きつけられ、砕け散る音がことさら甲高く響いた。

「犬の鳴き真似が上手なら、もっと鳴いてみたらどう?」

彼女は一歩前に出ると、怜の髪を掴んで無理やり顔を上げさせ、力の限り平手で打ち返した。

怜は絶叫した。「暁兄さん!!」

暁は怒りを必死にこらえた。今日の海月の振る舞いは、彼の我慢の限界を何度も踏み越えていた。

海月は手を放し、数歩後ろに下がると、晴れ晴れとした口調で言った。「お二人の邪魔はいたしません。末永くお幸せに。子宝にも恵まれますように。どうぞ、永遠に二人で縛り合っていてください」

彼女は怜の泣き声が響く中、藤本家を後にした。

玄関のドアが轟音を立てて閉まっても、怜の怒りは収まらなかった。彼女は暁に泣きながら訴える。「暁兄さん、見てよ、あの女!私たちに水をかけるし、私を叩くし……捕まえてちゃんとしつけてやらなきゃ……」

「もうやめろ」

暁は指で眉間を押さえた。「もう離婚したんだ。これ以上ごたごたするのはやめにしよう。怜、君が望むものはすべて与える。だから、もう騒ぐのはやめてくれないか?」

怜は唇を尖らせて暁の胸に寄り添った。「だって、水野海月の暁兄さんに対する態度が気に入らないんだもの。あの子、一番聞き分けがいいって話じゃなかったの? 全然そんなことないじゃない。見てよ、すごく怖かったわ」

その言葉を聞いて、暁は先ほどの光景を思い出した。グラスを掴んで二人に水を浴びせかけた姿、怜に平手打ちを食らわせたときの激しい形相。あんな彼女は見たことがなかった。自分は、妻の本当の姿を、これまで一度も見たことがなかったのかもしれない……

彼の中の海月の印象は、ただ「従順」という一言に尽きた。

海月が屋敷の庭に足を踏み出すと、門の前に黒いセダンが停まっていた。運転手が恭しく言う。「奥様、大奥様がお呼びです」

行く当てもなかった海月は、その言葉を聞いてためらうことなく車に乗り込んだ。

車はほどなくしてある邸宅の前に静かに停まった。ここは藤本家の旧邸で、暁の祖父母が住んでいる。

「奥様……」

執事は憔悴しきった様子の彼女に声をかけ、中へと案内した。

道すがら、彼は何度か何かを言いかけたが、結局口を閉ざした。

「大奥様が、奥様のことを気にかけていらっしゃいました。ずいぶん顔を見せてくれない、と。夕食までまだ時間がありますから、ゆっくりお話でもしてさしあげてください」

海月は目を伏せたまま、返事をしなかった。

今日、大奥様が自分を呼んだのは、おそらく離婚を思いとどまらせるためだろう。

広大な邸宅は、普段は老夫婦二人しか住んでおらず、静まり返っている。彼女が中に入ると、ソファに腰かけていた老婦人がすぐに気づき、親しげに手招きした。「海月ちゃん、こっちへ来てお座りなさい」

海月は気持ちを切り替え、笑顔を作ってその隣に腰を下ろした。

藤本圭子は海月の手を取って言った。「薄情な子だねえ、こんなに長くおばあちゃんの顔も見に来ないで。暁とはどうだい、うまくいっているのかい?」

探りをいれているのだろうか。 薄葉怜が帰国したという話が、この老婦人の耳に入らないはずがない。

彼女は淡々と答えた。「藤本暁に、私が藤本夫人の座に居座っていると言われました。たった今、離婚届にサインをして、薄葉怜のためにその席を空けてきたところです」

圭子は冷たく鼻を鳴らした。「薄葉怜が何だっていうんだい。 あの子のせいで、暁は交通事故に遭ったというのに。どの面を下げて戻ってきて、暁にまた付きまとうのかね。 海月ちゃん、心配しなくていい。おばあちゃんは絶対にあなたの味方だから。だから、暁と離婚するのは考え直してくれないかい?」

その必死な様子に、海月の胸は少し痛んだ。

しかし、藤本暁という男は、二年もの間尽くしても、その心を温めることはできなかった。

「離婚したですって? 結構なことじゃない!」

遅れてやってきた藤本朝美が、皮肉っぽく言い放った。彼女は高価な服をまとい、腰を揺らしながら婀娜っぽく歩いてくる。その様は実に艶やかだった。

圭子は彼女のその姿を見て、腹の虫が収まらないといった様子で叱りつけた。「歩くならまっすぐ歩きなさい。腰をくねらせて尻を突き出すような歩き方をして。 はしたない」

面子を潰された朝美は、気まずそうに顔をこわばらせたが、姑の隣に座る女に視線を移すと、冷たく鼻で笑った。

「そもそも、暁の許嫁に決まっていたのは水野家の長女、水野雫だったはず。それが、みっともなく男と密通して子供まで孕んだものだから、代わりに次女を嫁がせてきた。まったく、京市に長年いるけれど、水野家にもう一人娘がいたなんて聞いたこともなかったわ。どこの馬の骨とも知れない成り上がりが、有無を言わさず藤本家の若奥様の座に二年ものさばって。この二年間、贅沢三昧はもう十分楽しんだでしょう?」

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