
十年愛して、ようやく君の心に触れた
章 2
「よくも、のこのこ来られたわね?」
背後から、女の嘲りが鋭く刺さった。
川上彩乃は我に返り、涙を拭うと、いつの間にか背後に立っていた森田萌美に気づき、表情を一気に冷たくした。
この女は彼女の継母。まだ四十歳だが、手入れが行き届いていて三十代前半にしか見えない。ファッションも洗練されていて、どこか優雅な雰囲気をまとっている。川上明秀と再婚したのは、彼女が二十歳のとき。若さと美しさの絶頂にいた。
そのとき、実母は亡くなったばかりだった。
萌美はもともと川上家の家政婦でありながら、すでに妊娠していた――父の子を。
「そんなチョロっと涙こぼして、演技のつもり?」 冷淡に言い放つと、萌美は彩乃を乱暴に押しのけ、病室に入っていった。
彩乃は体勢を立て直し、その背を追って中へと足を踏み入れた。
彼女の姿を見つけた瞬間、川上詩織のくすんでいた瞳がふっと明るくなり、親しげな声で「お姉ちゃん!」と呼んだ。
彩乃は微笑みながら歩み寄り、詩織の手をそっと握った。「会いたいって聞いたよ。」
詩織は素直にうなずきながら言った。「もう三ヶ月も会ってないんだもん。すごく会いたかったよ。」
無垢で優しい詩織の存在は、彩乃の心を静かに引き裂いていく。
彼女の恋敵は、幼い頃から守り続けてきた妹その人だった。病床の妹から愛する人を引き離し、その弱みに乗じて藤井家の嫁の座を手に入れた――詩織が自分を憎むのは当然だと、彼女は痛いほど理解していた。
何度も想像した。再会の場で詩織が怒りをぶつけてくる姿を。でも、そんな場面は一度も訪れなかった。詩織は変わらず彼女に甘え、信じ、頼ってくる。それが、何よりも胸を締めつけるのだった。
彩乃は詩織に対して、どうしようもないほどの罪悪感を抱いていた。妹と向き合うたび、自分がとても卑しい人間に思えて仕方がなかった。
「ちょうど休暇を取ったところなの。だから、たっぷり一緒にいられるよ。」 涙で目元を赤くしながらも、彩乃は笑ってそう言った。
詩織はぱあっと笑顔を咲かせた。「やった!じゃあ、これから毎日来てくれる?退院するまで、ずっと……いい?」
「もちろん。約束するよ。」
そのやり取りを横で見ていた森田萌美は、あからさまに目を剥き、怒りをにじませて彩乃をにらみつけた。
詩織の手前、口には出さなかったが、心の中では怒りが煮えたぎっていた。藤井盛雄が彩乃を妻に選んだあの日から、詩織は魂の抜けたように生気を失っていった――その姿が、萌美には今も忘れられなかった。
憎しみをぐっと飲み込んで、森田萌美は我慢強く詩織を寝かしつけた。その後、冷ややかな声で彩乃に告げた。「盛雄さんがすぐ詩織に会いに来るわ。気まずい思いをしたくないなら、今のうちに帰ったほうがいい。」
彩乃は黙って立ち上がり、眠る詩織に最後の視線を落とすと、静かに病室の出口へ向かった。
ドアに手をかけて開けた瞬間、またしても背後から萌美の声が投げつけられた。「もう詩織に会いに来ないで。あの子をあれほど傷つけておいて、あなたに会う資格なんかない。」
彩乃は何も言わず、重たい足取りで廊下へと出ていった。
もう慣れている……そう、自分に言い聞かせるように。
病室のドアをそっと閉めると、彩乃はそのまま廊下のベンチに崩れるように腰を下ろし、深く頭を垂れた。堪えていた涙が、つっと頬を伝って落ちていく。
そのとき、エレベーターの扉が開き、盛雄が姿を現した。彩乃の姿を見つけた彼は、一瞬動きを止めた後、静かに彼女のもとへ歩み寄っていった。
彩乃は幼い頃から、盛雄の後ろを追いかけるのが好きだった。だから彼の足音を聞き分けることができる。今――この瞬間――耳に届いたのは、まさに彼がこちらに近づいてくる、あのなじみ深い歩みだった。彩乃は鼻をすんと鳴らし、手早く涙をぬぐった。
「詩織に会いに来たんだね。」 そう言って顔を上げ、無理やり笑顔を浮かべて彼を見つめた。
目は真っ赤に泣き腫れ、目尻にはまだ涙の跡が残っている。化粧はすっかり崩れ、どこかみじめな姿だった。
盛雄は淡々と「うん……」とだけ返し、短く尋ねた。「詩織には会えたのか?」
「うん、会ってきたよ。」
もしかすると、あまりにも哀れな姿だったせいかもしれない。盛雄が、珍しく彼女に言葉をかけてきた。「心配しなくていい。詩織はもうすぐ骨髄移植が受けられる。きっと元気になるよ。」
「うん、わかってる。」
盛雄はそれ以上言葉を続けず、病室のドアに手をかけて開けようとした。その背に向かって、彩乃は衝動的に声をかけた。「詩織のこと…どうか、ちゃんと大事にしてあげて。」
自分にはもう手に入らないのだから、せめて――詩織に返そう。
男の手が止まり、ほんの一瞬だけ動きが固まる。しかし振り返ることなく、低く、苛立ちをにじませた声で答えた。「言われなくても、ちゃんと守る。いちいち指図されなくてもな!」
その言葉には明らかな怒気が込められていて、一語一語が突き刺さるように響いた。
彼女はすでに離婚届にサインをした。藤井盛雄はようやく彼女から解放され、詩織のもとへ戻れる――きっとそれは、彼がずっと望んでいたはずのことだ。なのに、なぜ怒ったのだろう。
彼は、そんなに彼女が嫌なのか?
そんなに……憎んでいるのか?
盛雄はすでに病室の中へと入っていった。彩乃はまだベンチに座ったまま、ぽつんと病室のドアの方を見つめていた。
それからの数日、彼女は毎日のように病院に通った。歓迎されていないことは分かっていたから、病室には入らず、ただドアの小窓越しに詩織の姿を一目見るだけ。
ときには、盛雄が詩織を連れて下の階を散歩している姿を見かけることもあった。そのときも、彩乃は決して近づかず、ただ遠くから、静かに目で追っていた。
藤井盛雄が自分に向ける冷淡さと苛立ち――その分すべてを注ぐかのように、詩織には優しく、細やかに接する。その極端な差に、彩乃は胸を締めつけられながらも、目を逸らすことができなかった。
一ヶ月後、詩織は骨髄移植手術を受けた。手術は大成功だった。拒絶反応もなく、合併症も起こらず、順調に回復しているという。
ようやく、彩乃の胸に張りつめていた不安がふっとほどけた。
詩織が入院している間、盛雄は病室に張り付いていた。彼女と離婚届を提出する約束など、まるで最初からなかったことのように。
詩織への過剰なまでの気遣いと優しさ――そのすべてを見せつけられる毎日には、もう十分だった。彩乃は、この関係に終止符を打とうと決めていた。すべてを終わらせて、人生を――もう一度やり直したかった。
その日、彩乃は自分から盛雄に電話をかけた。コール音が何度も鳴り続け、ようやく相手が応答した。
「……何の用だ?」その声は相変わらず冷たく、感情の色が薄かった。
「離婚の手続き、いつ済ませに行く?」
返ってきたのは、長い沈黙のあと、やはり淡々とした声だった。「……まだ、サインしてない。」
「……え?」
あれから、あんなにも時間が経ったというのに――彼は、まだ離婚届に署名していなかった。
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