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十年愛して、ようやく君の心に触れた の小説カバー

十年愛して、ようやく君の心に触れた

初恋の相手をひたむきに想い続け、捧げた月日は十年に及んでいた。彼を守るために選んだ結婚という道だったが、夫となった彼の心に彼女の居場所はどこにもない。冷淡な拒絶を繰り返され、愛を注がれることのない孤独な日々。それでも彼の傍に居続けることを選んだ彼女だったが、無償の愛を貫いた代償はあまりにも残酷なものだった。絶望の淵に立たされ、彼女の心はついに限界を迎えて壊れてしまう。自身の命、そして宿ったばかりの新しい命が危うい均衡で揺れ動く事態に直面したとき、ようやく男は真実に向き合うことになる。失いかけて初めて、自分が人生のすべてを懸けて愛し、守り抜くべきだった存在が誰であったのかを、彼は痛切に悟るのだった。長すぎた片想いの果てに、二人の関係は最悪の局面で大きな転換点を迎える。すれ違い続けた十年の歳月を経て、ようやく彼の心は彼女へと向けられるが、その代償はあまりにも大きく、切ない運命が二人を翻弄していく。
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3

川上彩乃は、一瞬、思考が宙に浮いた。

なぜ彼はまだサインしていないのだろう?

まさか後悔している?離婚したくないとでも?

そんな考えが脳裏をかすめ、自分でも笑ってしまった。

盛雄が後悔するはずがない。彼は一刻も早く自分から解放されたいと願っているはずだ。今や詩織の体調は日に日に良くなり、そろそろ結婚してもおかしくない年齢に差しかかっている。盛雄にとって、自分は切り捨てるべき過去の残骸に過ぎない。

「明日の朝9時、役所で。」

そう言い残し、盛雄が何か反応を示す前に電話を切った。

一晩中、彼女は眠れなかった。ベッドの端に座り込んだまま、夜が明け朝日が昇るまで、ただ呆然と時を過ごした。8時になるとシャワーを浴び、スーツに着替え、ナチュラルなメイクを丁寧に仕上げて役所へ向かった。

一時間待っても、盛雄は姿を現さなかった。

電話をかけても、彼は出ようとしない。

苛立ちが募り、ついに藤井グループへと足を運んだ。受付の制止も聞かず、エレベーターに飛び乗り、彼のいるフロアへと突き進んだ。

盛雄が会議を終えて執務室に戻ると、そこには彩乃が革張りのソファに腰を下ろしていた。白く艶やかな顔立ちには、苛立ちと怒りが入り混じっている。

「どれくらい待った?」

彼は彼女が来ることを予想していたのか、特に驚いた様子もなく、淡々とした表情でデスクの向こう側へ回り、書類の束を手に取って開いた。

「三十分。」

「じゃあ、もう少し待て。」

男は机に身を傾け、再び仕事に没頭する。彼女を気に留める素振りすらない。

胸の奥で火の玉が膨れ上がり、今にも爆発しそうだった。

「どういうつもり?」

役所の前で一時間も待ち続け、ようやくここまで来たのに――それでも、彼はなお彼女に「待て」と言うのか。

彼の目には、自分はこの程度の存在なのか。たった一枚の書類にも劣るというのか。

「いったい、どうしたいの?」

声が自然と大きくなった。それでようやく、盛雄がちらりと顔を上げた。

「少し待てと言っただろ。」

「もう待てない。今日、絶対に離婚する。」

この男の冷たさも、軽んじられる感覚も――もう、限界だった。

「離婚なんて、できない。」

彩乃は、その場で固まった。まるで、脳内の時間だけが止まってしまったかのようだった。

盛雄は再び俯き、黙々と仕事に戻った。手元の作業が片付くと、机の引き出しから一通の離婚届を取り出し、立ち上がって彩乃の前に歩み寄った。

そして、彼女の目の前で――その離婚届を無造作に破り捨てた。

「君はまだ俺の妻だ……愛してるんじゃなかったのか? 『藤井奥さま』の座が欲しかったんじゃないのか? ならいい。この席は君のものだ。誰にも渡さない。」 その言葉を口にした男の瞳には、確かに怒りが宿っていた。

彩乃には理解できなかった。彼女はすでに署名を済ませている。詩織の病も回復に向かっている。――それなら、なぜ今さら?

二年という歳月の中で、彼は一貫して、彼女を突き放そうとしていた。その冷淡さに、何度も心を切り裂かれてきた。ようやく彼の望む「自由」が手に入るというのに……なぜ、今、それを手放すの?

「どうして今さら?

「離婚したいって言い出したのは、あなたでしょ!

「だから……詩織のもとへ戻してあげる。もう二度と邪魔しない。お願い、私を解放して……」 彩乃は、すべての誇りを捨てて頭を下げた。こんなにも惨めな自分を見せるのは初めてだった。

自分のためにも、みんなのためにも。ようやく出した答えが「手放す」ことだった。

簡単な決断じゃない。けれど、彼女はもう、覚悟を決めていた。

「放してやれ、だと?」盛雄の唇がわずかに上がり、冷えきった笑みを刻んだ。「そんなに甘くないよ。」

「じゃあ、どうして突然離婚に応じないの?理由を教えて。」

「それは……詩織の願いだ。」

「……え?」

「彼女は、俺と君を――『結ばせたい』って言った。」

「……」

彩乃は、言葉を失った。そして、怒りを抑えきれなかった。「『結ばせたい』って何よ!」

盛雄は、皮肉な笑みを消し、いつもの冷静な面持ちに戻った。

「彼女は、俺たちに幸せになってほしいって……そう言ったんだ。」

けれど、その瞳の奥は揺れていた。静けさの裏に、苛立ちと戸惑いが渦巻いていた。自分は誰かに譲られるような“物”じゃない。誰かの都合で差し出されたり、手放されたりする存在ではない。何を選ぶか、誰といるか――それを決めるのは、自分自身だ。誰にも口出しはさせない。

彩乃には、盛雄の心の内がどうしても読めなかった。ただ、彼が詩織との約束を守るために、こんなことをしているのだと勘違いしていた。

けれど、それが理解できなかった。

「君、詩織と結婚したいと思ってないの?」

そのひと言が、まるで盛雄の神経を逆撫でしたかのように、男の顔色が一瞬で険しくなる。「荷物、まとめて戻る準備をしろ。」

それはつまり――藤井家に戻れということ?

一か月前に彼が彼女を追い出したときも、こんなふうに一方的だった。

「あなた!」

男は怒気を押し殺した目で彩乃を見つめた。その瞳の奥に、今にも火が噴き出しそうな激情が潜んでいる。「まだ出ていかないのか?」

「……」

そんな盛雄を前にして、彩乃は口を開いたが、言葉が出てこなかった。

盛雄は無言で踵を返すと、フロアから天井まで届く大きな窓際へ歩み寄った。そして、ポケットに片手を突っ込んだまま、もう一方の手で煙草に火を点けた。背を向けたまま、静かに一服を吸い込んでいる。

一本の煙草を吸い終えた頃、盛雄が振り返ると、彩乃の姿はもうなかった。

彼女は、まるで風のように静かに去っていた。リビングのテーブルの上には、すっかり冷めきったコーヒーが一杯と、彼が破り捨てた紙片の山だけが残されていた。

もう二年になる。彼はずっと離婚の時を待っていた。

離婚届は何ヶ月も前にすでに秘書に用意させていた。ただ署名を交わし、彼女との関係をきっぱりと終わらせるために。だが、いざ彩乃が本当にサインした途端、どういうわけか、心にざらつくような苛立ちと、言葉にできない迷いが湧いてきた。

本当に詩織の願い通り、彩乃と“うまくやっていく”ためだったのか?

――それすら、自分にはもう分からなかった。

——

深まる秋。

夕暮れの風は少し肌寒かった。

彩乃はひとり、街をさまよっていた。まるで魂の抜け殻のように、一日中あてもなく歩き続けて――気がつけば、また中央病院の前に立っていた。

ここへ来るのは、何度目だろう。もう思い出せない。本当は、詩織に会いたかった。けれど、どうしてもその一歩を踏み出す勇気が持てずに、病院の入口で立ち尽くす。行き交う人々と車の流れを、ただ無心に眺めていた。けれどついに、意を決して中へ入った。向かうのは、入院病棟。

エレベーターで詩織の病室がある階まで上がり、いつものように静かにその前に立つ。ところが、ちょうどそのとき――中から、森田萌美の鋭い声が響いてきた。「退院したら、盛雄さんとすぐに結婚しなさい。」

詩織の表情は、誰の目にもわかるほど沈んでいた。小さく首を横に振り、かすれそうな声で、それでもしっかりとした口調で言った。「私は……盛雄兄さんと結婚しない。彼はもう、お姉ちゃんの人だから。」

その言葉を聞いた森田萌美は、思わず怒りに震えた。「この子は……どうしていつも自分のことを考えないの? 彼が離婚を迷ってるなら、あなたが背中を押せばいいのよ。盛雄さんの心にいるのは、あの彩乃じゃなくて、あなただってわかってるでしょ!」

「……お母さん。私の体、思ったより悪化してるみたい。先生の話では、再発の可能性があるって……今の状態で、もう一度骨髄移植するのは難しいかもしれない。抗がん剤治療しか方法がないけど……それが、すごく辛い治療なんだって。私……たぶん、持ちこたえられそうにない。」

「先生が言ってたのは『可能性がある』ってだけよ、必ず再発するってわけじゃないのよ。」

「お母さんの言いたいことはわかる。でも……盛雄兄さんが離婚を切り出さないなら、私にどうしろって言うの?」

そのやり取りを扉の外で聞いていた彩乃の胸が、じわりと痛んだ。手術が終わって、すべてが順調に回復していると思っていた。けれど――詩織の病気には、まだ再発の可能性があるという。

それが……盛雄との結婚を拒んでいる理由だったのか?

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