
十年愛して、ようやく君の心に触れた
章 3
川上彩乃は、一瞬、思考が宙に浮いた。
なぜ彼はまだサインしていないのだろう?
まさか後悔している?離婚したくないとでも?
そんな考えが脳裏をかすめ、自分でも笑ってしまった。
盛雄が後悔するはずがない。彼は一刻も早く自分から解放されたいと願っているはずだ。今や詩織の体調は日に日に良くなり、そろそろ結婚してもおかしくない年齢に差しかかっている。盛雄にとって、自分は切り捨てるべき過去の残骸に過ぎない。
「明日の朝9時、役所で。」
そう言い残し、盛雄が何か反応を示す前に電話を切った。
一晩中、彼女は眠れなかった。ベッドの端に座り込んだまま、夜が明け朝日が昇るまで、ただ呆然と時を過ごした。8時になるとシャワーを浴び、スーツに着替え、ナチュラルなメイクを丁寧に仕上げて役所へ向かった。
一時間待っても、盛雄は姿を現さなかった。
電話をかけても、彼は出ようとしない。
苛立ちが募り、ついに藤井グループへと足を運んだ。受付の制止も聞かず、エレベーターに飛び乗り、彼のいるフロアへと突き進んだ。
盛雄が会議を終えて執務室に戻ると、そこには彩乃が革張りのソファに腰を下ろしていた。白く艶やかな顔立ちには、苛立ちと怒りが入り混じっている。
「どれくらい待った?」
彼は彼女が来ることを予想していたのか、特に驚いた様子もなく、淡々とした表情でデスクの向こう側へ回り、書類の束を手に取って開いた。
「三十分。」
「じゃあ、もう少し待て。」
男は机に身を傾け、再び仕事に没頭する。彼女を気に留める素振りすらない。
胸の奥で火の玉が膨れ上がり、今にも爆発しそうだった。
「どういうつもり?」
役所の前で一時間も待ち続け、ようやくここまで来たのに――それでも、彼はなお彼女に「待て」と言うのか。
彼の目には、自分はこの程度の存在なのか。たった一枚の書類にも劣るというのか。
「いったい、どうしたいの?」
声が自然と大きくなった。それでようやく、盛雄がちらりと顔を上げた。
「少し待てと言っただろ。」
「もう待てない。今日、絶対に離婚する。」
この男の冷たさも、軽んじられる感覚も――もう、限界だった。
「離婚なんて、できない。」
彩乃は、その場で固まった。まるで、脳内の時間だけが止まってしまったかのようだった。
盛雄は再び俯き、黙々と仕事に戻った。手元の作業が片付くと、机の引き出しから一通の離婚届を取り出し、立ち上がって彩乃の前に歩み寄った。
そして、彼女の目の前で――その離婚届を無造作に破り捨てた。
「君はまだ俺の妻だ……愛してるんじゃなかったのか? 『藤井奥さま』の座が欲しかったんじゃないのか? ならいい。この席は君のものだ。誰にも渡さない。」 その言葉を口にした男の瞳には、確かに怒りが宿っていた。
彩乃には理解できなかった。彼女はすでに署名を済ませている。詩織の病も回復に向かっている。――それなら、なぜ今さら?
二年という歳月の中で、彼は一貫して、彼女を突き放そうとしていた。その冷淡さに、何度も心を切り裂かれてきた。ようやく彼の望む「自由」が手に入るというのに……なぜ、今、それを手放すの?
「どうして今さら?
「離婚したいって言い出したのは、あなたでしょ!
「だから……詩織のもとへ戻してあげる。もう二度と邪魔しない。お願い、私を解放して……」 彩乃は、すべての誇りを捨てて頭を下げた。こんなにも惨めな自分を見せるのは初めてだった。
自分のためにも、みんなのためにも。ようやく出した答えが「手放す」ことだった。
簡単な決断じゃない。けれど、彼女はもう、覚悟を決めていた。
「放してやれ、だと?」盛雄の唇がわずかに上がり、冷えきった笑みを刻んだ。「そんなに甘くないよ。」
「じゃあ、どうして突然離婚に応じないの?理由を教えて。」
「それは……詩織の願いだ。」
「……え?」
「彼女は、俺と君を――『結ばせたい』って言った。」
「……」
彩乃は、言葉を失った。そして、怒りを抑えきれなかった。「『結ばせたい』って何よ!」
盛雄は、皮肉な笑みを消し、いつもの冷静な面持ちに戻った。
「彼女は、俺たちに幸せになってほしいって……そう言ったんだ。」
けれど、その瞳の奥は揺れていた。静けさの裏に、苛立ちと戸惑いが渦巻いていた。自分は誰かに譲られるような“物”じゃない。誰かの都合で差し出されたり、手放されたりする存在ではない。何を選ぶか、誰といるか――それを決めるのは、自分自身だ。誰にも口出しはさせない。
彩乃には、盛雄の心の内がどうしても読めなかった。ただ、彼が詩織との約束を守るために、こんなことをしているのだと勘違いしていた。
けれど、それが理解できなかった。
「君、詩織と結婚したいと思ってないの?」
そのひと言が、まるで盛雄の神経を逆撫でしたかのように、男の顔色が一瞬で険しくなる。「荷物、まとめて戻る準備をしろ。」
それはつまり――藤井家に戻れということ?
一か月前に彼が彼女を追い出したときも、こんなふうに一方的だった。
「あなた!」
男は怒気を押し殺した目で彩乃を見つめた。その瞳の奥に、今にも火が噴き出しそうな激情が潜んでいる。「まだ出ていかないのか?」
「……」
そんな盛雄を前にして、彩乃は口を開いたが、言葉が出てこなかった。
盛雄は無言で踵を返すと、フロアから天井まで届く大きな窓際へ歩み寄った。そして、ポケットに片手を突っ込んだまま、もう一方の手で煙草に火を点けた。背を向けたまま、静かに一服を吸い込んでいる。
一本の煙草を吸い終えた頃、盛雄が振り返ると、彩乃の姿はもうなかった。
彼女は、まるで風のように静かに去っていた。リビングのテーブルの上には、すっかり冷めきったコーヒーが一杯と、彼が破り捨てた紙片の山だけが残されていた。
もう二年になる。彼はずっと離婚の時を待っていた。
離婚届は何ヶ月も前にすでに秘書に用意させていた。ただ署名を交わし、彼女との関係をきっぱりと終わらせるために。だが、いざ彩乃が本当にサインした途端、どういうわけか、心にざらつくような苛立ちと、言葉にできない迷いが湧いてきた。
本当に詩織の願い通り、彩乃と“うまくやっていく”ためだったのか?
――それすら、自分にはもう分からなかった。
——
深まる秋。
夕暮れの風は少し肌寒かった。
彩乃はひとり、街をさまよっていた。まるで魂の抜け殻のように、一日中あてもなく歩き続けて――気がつけば、また中央病院の前に立っていた。
ここへ来るのは、何度目だろう。もう思い出せない。本当は、詩織に会いたかった。けれど、どうしてもその一歩を踏み出す勇気が持てずに、病院の入口で立ち尽くす。行き交う人々と車の流れを、ただ無心に眺めていた。けれどついに、意を決して中へ入った。向かうのは、入院病棟。
エレベーターで詩織の病室がある階まで上がり、いつものように静かにその前に立つ。ところが、ちょうどそのとき――中から、森田萌美の鋭い声が響いてきた。「退院したら、盛雄さんとすぐに結婚しなさい。」
詩織の表情は、誰の目にもわかるほど沈んでいた。小さく首を横に振り、かすれそうな声で、それでもしっかりとした口調で言った。「私は……盛雄兄さんと結婚しない。彼はもう、お姉ちゃんの人だから。」
その言葉を聞いた森田萌美は、思わず怒りに震えた。「この子は……どうしていつも自分のことを考えないの? 彼が離婚を迷ってるなら、あなたが背中を押せばいいのよ。盛雄さんの心にいるのは、あの彩乃じゃなくて、あなただってわかってるでしょ!」
「……お母さん。私の体、思ったより悪化してるみたい。先生の話では、再発の可能性があるって……今の状態で、もう一度骨髄移植するのは難しいかもしれない。抗がん剤治療しか方法がないけど……それが、すごく辛い治療なんだって。私……たぶん、持ちこたえられそうにない。」
「先生が言ってたのは『可能性がある』ってだけよ、必ず再発するってわけじゃないのよ。」
「お母さんの言いたいことはわかる。でも……盛雄兄さんが離婚を切り出さないなら、私にどうしろって言うの?」
そのやり取りを扉の外で聞いていた彩乃の胸が、じわりと痛んだ。手術が終わって、すべてが順調に回復していると思っていた。けれど――詩織の病気には、まだ再発の可能性があるという。
それが……盛雄との結婚を拒んでいる理由だったのか?
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