
あなたはただの身代わり人形~冷酷な夫を捨てて、死んだはずの元カレと再婚します~
章 2
望月雨音は書類袋から離婚協議書を取り出し、署名欄のページを直接開いて提示した。「サインしてほしい書類があるの」
『離婚しましょう』と言おうとしたが、思い直す。池田光洋という男は極度のメンツ至上主義だ。そうすんなりとサインするとは思えない。
口まで出かかった言葉を飲み込み、雨音は言い換えた。「あなたが前に買った別荘の管理会社から届いたみたい」
光洋は眉をひそめ、ようやく彼女の方を向いたが、その口調は不機嫌そのものだった。 「そんな些細なことで、いちいち俺の手を煩わせるな。 お前が自分でサインできないのか?」
しかし雨音は頑として書類とペンを差し出し、伏し目がちに従順を装って言った。「名義があなただから、私がサインするのはまずいでしょ。それに、私があなたの妻だってことは誰にも知られたくないって、あなたが言ったんじゃない」
光洋は彼女の言葉に少し驚き、無意識に眉間の皺を深くした。
今日の雨音の反応は、あまりにも静かで、聞き分けが良すぎる。
以前も彼の前では殊勝で従順な態度を取っていたが、少なくとも悲しげな表情は見せていたものだ。
だが今は、不気味なほど大人しい。
何かおかしいと感じ、顔をしかめて口を開こうとしたその時、雨音は彼の反応を見て取って、わざと思いやるように言った。「アフターピルは早めに飲んだほうがいいわ。それに副作用で気分が悪くなることもあるから、飲ませた後はちゃんと様子を見てあげてね」
その言葉を聞くと、光洋の眉間の皺は徐々に消え、喉の奥で微かな嘲笑を漏らした。
――なんだ、桜井沙耶が妊娠して“池田の妻”という自分の地位が揺らぐのを心配しているのか?
それなら、この聞き分けの良さも納得だ。
彼は視線を戻すと、いつものように内容を確認もせず、ペンを受け取って走り書きで署名した。
雨音は書類を回収し、光洋が沙耶をお姫様抱っこして二階へ上がっていくのを見送った。リビングで長い間立ち尽くした後、ようやく二階の客間へと向かった。
隣の主寝室からは、いつまでも甘い吐息が漏れ聞こえてくるようだった。一晩中、雨音は安眠できなかった。
あの馴染み深い悪夢が、また彼女にまとわりつく。一面の白い雪原が血で赤く染まり、愛する男が救急車に乗せられていくのをただ見送るしかなかった。カシミアのコートは血でぐっしょりと濡れている。
彼が最後に残した言葉は――『雨音、泣かないで。ちゃんと生きて……』
『アレック!アレック!』
雨音は半狂乱で駆け寄り彼を抱きしめようとしたが、その姿は目の前で薄れ、遠く彼方へ消えていく。
全身が冷え切っていく感覚の中、ふいに耳元で聞き慣れた声が響いた。
「望月雨音、起きろ!」
必死に目を開けると、見慣れた顔が視界に飛び込んでくる。
男は太い眉をきつく寄せ、屈み込んで彼女をじっと観察していた。その瞳の奥には、複雑な感情が渦巻いている。
雨音は口を開いた。「アレック……」
「朝から何の寝言だ?」
冷ややかな声が、彼女の瞳に残っていた呆然とした色を打ち砕く。続いて投げかけられたのは、嫌悪に満ちた憶測だった。
「悪夢でも見たか?」
雨音は完全に意識を取り戻し、目の前にいるのが光洋であって、夢の中のあの人ではないことに気づいた。
彼女が黙り込んでいると、光洋はさらに眉をひそめて手を伸ばし、彼女に触れようとした。だが雨音は何気ないふりでそれを避けた。「ごめんなさい、うるさくしちゃった?」
以前と同じ従順な口調だが、そこにはなぜか他人のような距離感が漂っていた。
光洋は無意識に拳を握りしめた。何かがおかしいという感覚が拭えない。
雨音が礼儀正しく「何か用?」と尋ねるまで、その違和感は続いた。
彼は我に返ると胸の奥の不快感を押し殺し、冷たく、そして当然のような口調で言った。 「沙耶がしばらく池田グループで経験を積みたいと言っている。青山村の再開発プロジェクトを彼女に譲ってくれ。ついでに仕事の流れも教えてやってほしい。彼女の卒業制作だと思ってな」
おすすめの作品





