
裏切りの指輪、名前を捨てて
章 2
浜本心葉 POV:
「ああ, あれね. 作業中に邪魔になったから, どこかに置いてきたのよ」私は, 何でもないことのように答えた. 彼の視線が, 私の指に痛いほど突き刺さった.
「なんだよ, 大切な指輪だろ? 俺とお揃いの. どこに置いたか覚えてるのか? 」晴哉の声には, 不満と, ほんの少しの焦りが混じっていた. 彼は, 指輪が私にとってどれほど重要だったかを知っていたはずだ.
「さあ? どこだったかしら. まあ, どうせまた見つかるわ」私は, 平静を装って言った. 私の心は, 彼の動揺を見て, わずかに冷たい喜びを感じていた.
「見つかるって, そんな適当な. もしなくしたらどうするんだよ」晴哉は, 眉間にしわを寄せた. 彼は, 彼の偽りの愛の象徴が消えたことに, 苛立っているようだった.
「もしなくしたら, また新しいのを作ればいいじゃない. どうせもう, 古くなったでしょう? 」私の言葉に, 晴哉は一瞬言葉を失った.
彼の表情は, 一瞬で和らいだ. 「そうだな, お前らしいな. じゃあ, 今度一緒に見に行こう. もっと素敵なのを買ってやるから」彼の笑顔は, 私にはもう何も響かなかった.
「ええ, そうね」私は曖昧に答えた. 指輪が溶かされて, 小さな金属の塊になったことを, 彼はもちろん知らない. これが, 私の復讐の第一歩だった.
晴哉は, テーブルの上の小さな紙袋に気づいた. 「あれ? これ, 何だ? お前, 俺に何か買ってくれたのか? 」彼の声は, 子供のように弾んでいた.
「ええ, そうよ. あなたへの贈り物」私は, 偽りの笑顔を浮かべた. その中身は, 彼にとって最大の裏切りになるだろう.
「ありがとう! 何だろうな, 開けてもいいか? 」晴哉は, 目を輝かせた. 彼は, 私から贈られるものが, まだ自分を喜ばせると信じているようだった.
「いいわ. でも, 開けるのは, 少し後にね」私は, 彼の期待を煽るように言った. まだ, その時ではない.
彼の紙袋の中には, 溶かされた指輪の金属の塊が入っていた. それは, 彼の裏切りが形を変えたものだ.
「なんだよ, 焦らすなよ」晴哉は, 不満そうに口を尖らせたが, 私の言葉に従った. 彼は, 私が彼に報復しようとしているなど, 夢にも思っていないだろう.
私の心は, さらに冷たくなった. 彼の無邪気さが, 私にはあまりにも滑稽に見えた.
「そういえば, あなた, 今日が何の日か, 知ってる? 」私は, 静かに尋ねた. 彼の表情が, 一瞬で凍り付くのが見えた.
晴哉の顔から, さっと血の気が引いた. 彼は, おどおどと私を見つめた. 「えっと, その, 何か特別な日だったか? 」彼は, 明らかに思い出したくない顔をしていた.
「私たちの, 初めてのデート記念日よ. 十年, 経ったわね」私の声は, 感情を完全に失っていた. その言葉は, 彼にとって痛恨の一撃だっただろう.
晴哉は, 見る見るうちに顔色を変え, 慌てたように私の手を取った. 「ご, ごめん! 心葉, 本当に忘れてたわけじゃなくて! 最近仕事が忙しくて, つい…」彼は必死に言い訳を始めた.
「謝罪はいらないわ. それより, 埋め合わせをするなら, 今からどこかへ行きましょう. 二人で, ゆっくり過ごしましょうよ」私は, 彼の提案を予測していたかのように, 先手を打った.
「いいのか! ? もちろん, どこへでも! どこに行きたい? 」晴哉は, 心底ほっとしたように言った. 彼の顔には, 安堵の表情が広がっていた.
「そうね…あの, 私たちの思い出の場所へ行きたいわ」私は, 彼の裏切りを暴くための舞台を用意した.
「わかった! すぐに車を出すから! 」晴哉は, 喜び勇んで玄関へ向かった. 彼は, 私がまだ彼を愛していると信じているのだろう.
晴哉が運転する車の中, 彼は楽しそうに最近の仕事の話や, 蓮夏をいかに指導しているかを話していた. 私の心は, 窓の外の景色と同じくらい, 冷え切っていた.
「このプロジェクト, 蓮夏が担当する部分も多いんだ. あいつ, 本当に頑張り屋でさ」晴哉の声が, 私の耳には遠く聞こえた. 彼は, その名前を私に隠そうともしなかった.
私は, 彼の話に適当に相槌を打ちながら, 窓の外に目を向けた. 街の景色が, まるで他人事のように流れていく. 私の心は, もうここにはなかった.
ふと, 助手席の足元に, キラリと光るものが見えた. 拾い上げてみると, それは女性用の小さなヘアピンだった. 蓮夏がよくつけている, あのデザインだ.
私は, 表情一つ変えずにそのヘアピンを拾い上げ, ハンドバッグの奥底にしまい込んだ. それは, また一つ, 彼の裏切りの証拠となった.
何も言わなかった. 問い詰める気力も, もう湧かなかった. ただ, 淡々と証拠を集める. それが, 私に残された唯一の感情だった.
車は, 私たちが初めてデートした海辺のレストランに到着した. 思い出の場所は, 今はただの舞台でしかなかった.
晴哉は, 私が車を降りる際に, さりげなく私の腰に手を添えた. その手の感触が, 私にはぞっとするほど冷たかった. 彼は, まだ私を妻だと思っているのだろう.
「心葉, ここでプロポーズした時, 覚えてるか? 本当に幸せだったな」晴哉は, 懐かしそうに海を見つめた. その言葉は, 私には空虚な響きでしかなかった.
周りの客たちが, 晴哉の顔を見て, 「松井社長だ」「奥さんとデートなんて, 素敵ね」とささやいているのが聞こえた. 彼らは, 彼の完璧な演技に騙されている.
その時, 晴哉の携帯が鳴った. 彼は, 一瞬躊躇したが, すぐに「ああ, ごめん, ちょっと席を外す」と言って, 慌ただしく立ち上がった. 彼の表情には, 隠しきれない焦りが見えた.
「ああ, 蓮夏か. 今, どこだ? 」彼の声が, 少し離れた場所から聞こえてきた. 私の心は, 何の感情も抱かなかった.
「ごめん, 心葉. ちょっと急な仕事が入った. 少しだけ待っててくれるか? 」晴哉は, 申し訳なさそうな顔で私に言った. 彼の顔は, 嘘で塗り固められていた.
「ええ, 構わないわ」私は, ただ静かに頷いた. 私の心は, すでにこの状況を予測していた.
「松井社長, 仕事熱心だわね」「奥さんも理解があるわ」周りの声が, また聞こえてくる. 彼らの言葉は, 私にはもう届かなかった.
私は, ただ静かに窓の外の海を見ていた. 波の音が, 私の心の中の虚無感をさらに深くした. 彼が戻ってくるまで, 私はここで, 演技を続けるだけだ.
ふと, 振り返ると, 晴哉が携帯を耳に当て, 満面の笑みを浮かべているのが見えた. その笑顔は, 私には向けられていない. 彼の瞳は, 私にはもう映っていなかった.
彼の声が, 小さく聞こえてきた. 「ああ, 心配するな. 今, 心葉は一人で待ってるから, 大丈夫だ. すぐにそっちへ行く」その言葉が, 私の耳に届いた瞬間, 私の心は完全に凍り付いた.
私は, 無言で席を立ち, 車のキーを手に取った. もう, 彼の演技に付き合う必要はない.
彼の車に戻ると, 助手席のモニターに, 晴哉の携帯のメッセージアプリが開いたままになっていた. そこには, 蓮夏との生々しいやり取りが残されていた.
「今夜は心葉と一緒なの? 寂しいよ, 晴哉さん」「大丈夫だ, すぐに抜け出す. お前を一番に考えてるからな」
その言葉が, 私の目に飛び込んできた瞬間, 私の体は凍りつき, 心臓が大きく脈打った.
「愛してるよ, 私の晴哉さん」「俺もだ, 蓮夏」
そのメッセージを見た瞬間, 私の胃から何かが込み上げてきた. 喉の奥が熱くなり, 全身が震えた.
「心葉, 待たせたな. 本当にごめん. 急ぎの案件で, どうしても外せないんだ」晴哉が, まるで何もなかったかのように, 笑顔で車に戻ってきた. 彼の笑顔は, 私にはもう, 悍ましかった.
私は, 何も言わずに彼に冷たい視線を向けた. 私の顔には, 一切の感情がなかった.
「どうしたんだ? 気分でも悪いのか? 」晴哉は, 私の顔色を心配するように言った. 彼の心配など, 私にはもう必要なかった.
私は, 車を降りて, 海辺の茂みの陰に隠れた. 胃から込み上げてくるものを, 抑えきれなかった.
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