灰燼からの再起 の小説カバー

灰燼からの再起

8.8 / 10.0
幼馴染で婚約者の橘尚哉を心から愛していた。二人の結婚は巨大な財閥同士が手を組む完璧な象徴となるはずだった。しかし、前世の最期に見たのは残酷な裏切りだった。燃え盛るアトリエの中、熱風に焼かれながら助けを求める私を、尚哉は義妹の由梨亜と共に冷たく見捨てたのだ。由梨亜の偽りの制止を聞き入れ、憐れみの視線を一度だけ向けた後、彼は炎の中に私を置き去りにして去って行った。かつて守ると誓ってくれたはずの男にとって、私の献身的な愛は、義妹と結ばれるための道具に過ぎなかったのだ。絶望の中で命を落としたはずが、目覚めるとそこは過去の自室だった。運命が巻き戻り、家族の役員会議を控えた一時間前に戻った私は、今度こそ自分の人生を取り戻すことを決意する。会議室に現れた私は、動揺する周囲を余所に真っ直ぐ上座へと向かい、かつての愛の象徴であった尚哉との婚約を破棄すると宣言した。灰の中から再起した令嬢による、復讐と再生の物語が幕を開ける。

灰燼からの再起 第1章

幼い頃から、婚約者の橘尚哉(たちばな なおや)を愛していた。

私たちの結婚は、両家の巨大な帝国を一つにする、完璧な証となるはずだった。

前の人生で、彼は燃え盛る私のアトリエの外で、義理の妹の由梨亜(ゆりあ)と一緒に、私が死ぬのを見ていた。

煙に喉を焼かれ、肌を焦がす熱さに耐えながら、私は彼の名を叫んだ。

「尚哉、お願い!助けて!」

由梨亜は彼の腕にしがみつき、偽りの恐怖に満ちた顔で言った。

「危ないわ!あなたまで怪我をしちゃう!早く行かないと!」

そして、彼はその言葉に従った。

彼は私を最後にもう一度だけ見た。

その瞳には、どんな炎よりも心を抉る、憐れみに満ちた色が浮かんでいた。

そして彼は背を向け、私を燃え盛る炎の中に置き去りにして、走り去った。

死ぬ瞬間まで、私には理解できなかった。

いつも私を守ると約束してくれた男の子が、私が焼き殺されるのをただ見ているなんて。

私の無条件の愛は、彼が私の妹と結ばれるための、代償だったのだ。

再び目を開けたとき、私は自分の寝室に戻っていた。

一時間後には、家族の役員会議に出席することになっている。

今度の私は、まっすぐにテーブルの上座へと歩み寄り、こう言った。

「婚約を、破棄させていただきます」

第1章

柏木(かしわぎ)家の役員会議室の重厚な楢材の扉が、マホガニーのテーブルに置かれたクリスタルグラスを震わせるほどの勢いで開かれた。

そこに立っていたのは、柏木詩織(しおり)。

化粧気のない青白い顔。いつもは温かく優しい瞳が、今は氷の欠片のように冷たく、硬い。

彼女は父が座るテーブルの上座へとまっすぐに歩み寄った。父の顔には困惑の色が浮かんでいる。

「婚約を破棄したいんです」

感情の欠片も感じさせない、平坦な声だった。

柏木グループと橘ホールディングスの合併を目前に控え、ざわついていた室内の空気が、その一言で切り裂かれる。

父、柏木健三(けんぞう)が娘を見つめた。

「詩織、何を言っているんだ?馬鹿なことを言うな。尚哉くんがもうすぐ来るんだぞ」

「馬鹿なことではありません」

彼女はそう言うと、集まった家族の顔を一人一人見渡した。

「私は、橘尚哉とは結婚しません」

「これはお前だけの問題じゃないんだ、詩織」

父の声が荒くなる。

「これは十年がかりで進めてきた合併の話なんだ。この家族の未来がかかっているんだぞ」

あの人生は、私が彼と義妹の不貞を問い詰めた瞬間に終わった。

口論は醜いものになり、混乱の中、私のアトリエで火事が起きた。

最後に覚えているのは、彼が私を炎の中に置き去りにしたときの、身を焦がすような痛み。

そして…黒く、静かな虚無。

今朝、自分のベッドで息を呑んで目覚めるまでは。

太陽は輝き、鳥はさえずり、カレンダーは二年前の日付を示していた。

これは夢じゃない。二度目のチャンスなんだ。

火事を思い出す。

肺を満たす刺激臭の煙、肌を焼く熱。

婚約者であり、子供の頃から愛してきた男、尚哉の名を叫んだことも。

彼はそこにいた。

アトリエのドアの外に立ち、その顔は炎に照らし出されていた。

そして彼の隣には、義理の妹の由梨亜がいた。

「尚哉、お願い!助けて!」

私は嗄れた声で叫んだ。

由梨亜は彼の腕にしがみつき、偽りの恐怖に満ちた顔で言った。

「尚哉さん、危ないわ!あなたまで怪我をしちゃう!早く行かないと!」

そして彼は、その言葉に従った。

彼は私を最後にもう一度だけ見た。その瞳には、どんな炎よりも心を抉る、憐れみに満ちた色が浮かんでいた。

そして彼は背を向け、私を死なせるために走り去った。

その記憶はあまりに鮮明で、胃がひっくり返りそうになる。

それが私の優しさの代償。

それが私の無条件の愛への報い。

「彼は、私を愛していません」

詩織の声は、不気味なほど穏やかだった。

「彼が愛しているのは、由梨亜です」

テーブルの向こうから、息を呑む音がした。

義理の妹、由梨亜が顔を上げた。大きく無垢な瞳が、みるみる涙で潤んでいく。

「お姉様、どうしてそんなことを言うの?尚哉さんはお姉様を心から愛しているわ。私は…私はただの妹なのに」

「妹だなんて、二度と呼ばないで」

詩織の声が、ついに怒りの色を帯びてひび割れた。

「詩織、もういい加減にしろ!」

柏木健三がテーブルを拳で叩きつけた。

由梨亜は静かにすすり泣き始めた。この家の男たちにはいつも効果的な、繊細で、胸が張り裂けるような泣き声だ。

「尚哉さんは、お姉様の事故以来、ずっと心配していたのよ。一時間おきに電話してきて。お姉様が新しい絵のために欲しがっていた限定品の顔料を見つけるために、徹夜までしてくれたのよ」

詩織は笑い出しそうになった。

顔料。そう、彼は私のためにそれを見つけてくれた。

彼は由梨亜のために、希少なダイヤモンドも見つけていた。

「彼はあなたに顔料をくれたのよね?」

詩織の視線が由梨亜に突き刺さる。

「じゃあ、あなたには何をくれたのかしら?」

由梨亜は戸惑った顔をした。

「私…何のことかわからないわ」

詩織はシンプルな黒いドレスのポケットに手を入れ、小さなベルベットの箱を取り出した。

それをテーブルの上に放る。

磨き上げられた木の上を滑り、父の前で止まった。

父が箱を開ける。

中にはネックレスが入っていた。ティアドロップ型のサファイアがついた、繊細なシルバーチェーン。

「先月、記念日に尚哉がくれたものよ」

詩織は室内にいる全員に説明した。

それから、彼女はスマートフォンを取り出し、箱の隣のテーブルに投げつけた。

画面には写真が表示されている。

尚哉と由梨亜の写真だった。

二人はヨットの上にいて、背後には夕日が沈んでいる。

尚哉は由梨亜を腕に抱き、彼女の首筋にキスをしていた。

由梨亜の首には、ネックレスがかかっている。

ティアドロップ型のサファイアがついた、繊細なシルバーチェーン。

箱の中のものと、瓜二つだった。

「彼は、私のためだけにデザインされた、世界に一つだけのものだと言ったわ」

詩織の声は皮肉に満ちていた。

「嘘だったのよ」

彼女は箱を手に取った。

「これは、デパートで五万円。私が調べたわ。由梨亜が写真でつけているのは?カルティエのものよ。五百万円したそうね」

彼女は安物のネックレスを指から滑り落とした。

カチャリと音を立ててテーブルに落ちる。

それは哀れで、ちっぽけに見えた。

自分がそれをどれほど大切にしていたかを思い出す。

彼の特別な愛の象徴だと思って、毎日身につけていた。

それが安物で、偽物だったという現実は、苦い薬だった。

その時、再びドアが開いた。

橘尚哉が駆け込んできた。髪は少し乱れ、ネクタイは緩んでいる。

ここまでずっと走ってきたかのようだ。

「詩織、ごめん、遅くなった。僕は…」

彼は室内の雰囲気に気づいて言葉を止めた。

スマートフォンの写真、テーブルの上のネックレス、そして詩織の顔つきを見て、すべてを察した。

「詩織、これは君が思っているようなものじゃない」

彼の声は懇願に満ちていた。

「説明させてくれ」

「何を説明するの?」

詩織が尋ねた。

「どちらのネックレスが本物なのか、ということ?」

彼が答える前に、由梨亜が小さく叫んだ。

彼女はふらつき、片手を額に当てた。

「なんだか…めまいが…」

彼女は囁いた。

即座に、尚哉の注意は詩織から由梨亜へと移った。

彼の顔に浮かんだパニックは本物だったが、それはすべて、彼のもう一人の女に向けられたものだった。

「由梨亜!」

彼は彼女のそばに駆け寄り、崩れ落ちる体を支えた。

「大丈夫か?どうしたんだ?」

彼は、詩織にはもう何年も見せていない、必死の優しさで彼女を抱きしめた。

婚約者であるはずの女、結婚するはずだった女、そして焼き殺されるのを放置した女には、一瞥もくれなかった。

二人を見つめるうち、詩織の心に残っていた愛の最後の残り火が、冷たく硬い灰に変わった。

これだ。これが、皆の目の前にある、証拠だ。

私の決断は、正しいだけじゃない。

生き残るために、必要なことだった。

「ほら」

詩織の声は、決定的な響きを帯びていた。

「ご覧の通り。彼はもう選んだのよ」

彼女は父を見た。その顔には衝撃と、徐々に広がる恐怖が混じり合っていた。

「婚約を破棄します」

彼女は繰り返した。

「橘家が合併のために柏木家の花嫁を必要とするなら、由梨亜をどうぞ。彼女なら、喜んで私の代わりを務めるでしょうから」

柏木健三は、娘の固い決意に満ちた顔と、尚哉が由梨亜を甲斐甲斐しく介抱する光景とを見比べた。

彼は途方に暮れていた。

「詩織…早まるな」

彼はどもりながら言った。

「みんな、少し…落ち着く必要がある」

「一週間、時間をあげましょう」

義母、つまり由梨亜の母親が、滑らかに提案した。

「冷却期間よ。詩織は今、感情的になっているだけ。すぐに正気に戻るわ」

一週間。

生きながら焼かれたことを忘れるのに、一週間。

安物の模造品に取って代わられたことを受け入れるのに、一週間。

いいだろう。

一週間あれば、十分すぎる。

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