
片思いの代償
章 3
その夜、白石英梨は高遠湊の部屋で眠った。
二人が恋人同士であることは知っている。
一緒に夜を過ごすのが当たり前だということも。
けれど、真夜中の静寂の中、家の中に漂う曖昧な物音は、詩織を眠らせてはくれなかった。
彼女はまた煙草に火をつけた。
細い指に絡みつく煙を見つめながら、深く吸い込む。
その味は、今の彼女の気持ちのように、苦くて、えぐみがあった。
翌朝、詩織は腫れぼったい目で階下へ降りた。
「詩織ちゃん!」
英梨が声をかけ、彼女をソファに座らせる。
英梨の首筋には、微かに赤い痕が見えた。
「もうすぐお兄さんの誕生日でしょ。パーティーを開きたいんだけど、彼がどんなスタイルが好きか知ってる?」
英梨の質問に、詩織は現実に引き戻された。
かつて、湊と二人で海辺を散歩したときの会話を思い出さずにはいられなかった。
きらきら光る海が好き、波の音が好き、朝日が昇る中、彼と手をつないで砂浜を歩くのが好きだと、彼女は言った。
その日、湊は彼女の手を握り、長い長い時間、一緒に歩いてくれた。
「ちび、お前は海が好きなんだな」と彼は言った。
「じゃあ、これからの俺たちの誕生パーティーは、海辺でやろう。お前が好きなものが、俺の好きなものだ」
あの頃、彼の世界は彼女を中心に回っていた。
今、彼は彼女を避けている。
彼女が好きなものなんて、すべて忘れてしまった。
苦い感情が胸に広がる。
声を取り戻すのに、少し時間がかかった。
「私は……」
彼女が口を開こうとしたとき、湊が歩み寄り、その言葉を遮った。
「俺のことは、俺に聞け」
英梨は彼の腕にしがみつき、甘えた声を出す。
「だって、女の子同士の方が、彼のことをよく知ってると思ったのよ。どうやら、妹さんでも、彼のことはあまり知らないみたいね」
詩織は無理に笑みを作った。
「ええ。本当に、何も」
「お二人でどうぞ。私は行かなきゃ」
苦々しさを押し殺し、彼女は言った。
踵を返して立ち去ろうとしたが、湊の目が暗く光る。
「朝っぱらから、何の用があるんだ?」
彼の冷たい声に、一瞬、心臓が止まった。
まだ、私のすることを気にかけてくれるの?
詩織は正直に答えた。
「今日は、入学手続きの予約があるの」
その言葉を聞いた途端、英梨は驚いた顔をした。
「旅行に行くの? 友達と? それとも、彼氏?」
湊は詩織を睨みつけ、その口調は非難に満ちていた。
「有栖川詩織、お前は高校を卒業したばかりだ。大学が始まる前から、変な連中と付き合うな」
氷のように冷たい叱責は、まるで物理的な打撃のようだった。
説明する気力さえ、奪われてしまう。
沈黙の中、英梨が場を和ませた。
「若い女の子がデートするのは普通よ。湊、そんなに厳しくしないで」
そして彼女は詩織に向き直り、優しく慰めるような声で言った。
「好きな人がいるなら、大胆に愛すべきよ。十八歳は一度きりなんだから。お兄さんの言うことなんて聞かなくていいの」
それから英梨は湊の手を取り、二人で去って行った。
彼らの後ろ姿を見送りながら、詩織はゆっくりと拳を握りしめた。
私に一度しかない十八歳は、もう、高遠湊に捧げてしまった。
あと十四日。
そうすれば、ここを出て行ける。
私の青春を、誰にも気づかれないこの沼地に埋もれさせてたまるものか。
詩織は家を出た。
外は霧が立ち込め、小雨が降っている。
夏だというのに、雨のせいで肌寒かった。
昔は、雨が降るたびに、湊が車で送ってくれた。
「俺のちびは濡らしちゃいけない」と彼は言った。
「俺の腕が、お前のシェルターだ」
でも今は、一人で歩くことに慣れなければならない。
彼女は視線を落とし、傘をさして雨の中へと歩き出した。
手続きを終え、タクシーを呼ぼうとしたとき、スマートフォンの通知に気づいた。
特別な通知。湊のSNSからだった。
指が勝手に動き、それをクリックする。
半年に一度くらいしか投稿しない湊が、新しいステータスを更新していた。
『雨の日は、公表するのにぴったりだ』
写真は、完璧に仕立てられたタキシード姿の彼が、マーメイドラインのウェディングドレスを着た白石英梨を抱きしめているものだった。
彼はカメラに向かって、穏やかに微笑んでいる。
そのシンプルな一文とウェディング写真に、詩織は衝撃を受けた。
すでに赤くなっていた目が、焼けるように熱い。
コメント欄は、祝福の言葉で溢れていた。
お似合いのカップルだ、天が定めた二人だと、誰もが言っていた。
詩織は画面を見つめ、何も感じなかった。
いつもの胸の痛みは、もうそこにはなかった。
彼女は、冷静にコメントを打ち込んだ。
『末永くお幸せに』
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