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禁欲モード崩壊──彼女が黙った夜、俺は壊れた の小説カバー

禁欲モード崩壊──彼女が黙った夜、俺は壊れた

京都の由緒正しき名家、青玉家の御曹司である青木浩司は、非の打ち所がないエリートとして知られていた。しかしその本性は、冷徹な自制心で心を凍らせた孤独な男。彼は愛想の良い振る舞いを崩さない妻、石川凪に対して苛立ちを募らせていたが、ある時を境に凪は彼への歩み寄りをやめてしまう。婚前協議の定めに従い、沈黙を貫くようになった彼女。雨が窓を叩く夜、浩司はついに抑え込んできた激情を爆発させる。ガラス越しに彼女を追い詰め、焦がれる想いを吐露する浩司に対し、凪は冷ややかに微笑み、契約書に彼の命を救う義務などないと告げるのだった。常に禁欲的で完璧だった男の理性は、凪という存在を前にして無残にも崩壊した。夜の闇よりも深い口づけを交わし、ブレーキを失った彼の愛は、やがて周囲を驚愕させるほどの執着へと変わっていく。京都の社交界で「妻を溺愛しすぎる男」として語り継がれることになる、一人の御曹司の豹変と、契約から始まる狂おしい愛の物語。
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2

骨を刺すような師走の風が吹いていた。

送迎車の暖房をもってしても、凪の芯まで冷え切った心を温めるには至らない。

凪の胸に、やはり一抹の怯えがよぎる。 だが、彼女はすぐに思考を切り替えた。

どうせ残りわずかな命だ。 彼がどんな手を使ってこようと、もはや大したことではない。

凪は覚悟を固めると、奏へ『大丈夫』とだけメッセージを送った。

車は九条市最大のナイトクラブの前で静かに停まった。

運転手がドアを開ける。 その所作は丁寧だが、凪に向けられる眼差しに敬意の色はなかった。

凪が車を降りると、男は無言で先を歩き始めた。

眩い光に満ちた廊下を抜け、一番奥の部屋の前で男が立ち止まる。 両開きの重厚な扉が開かれると、彼は脇へと身を寄せた。

「青木さん、

お連れしました」 その声は凪ではなく、 部屋の奥に向けられている。 男は目で凪に入るよう促した。

腹を括り、凪は背筋を伸ばして堂々と部屋へ足を踏み入れた。

背後で重い扉が閉まる音がした。

密閉された空間に、張り詰めた空気が満ちる。 まるで酸素が薄くなったかのように息苦しく、心臓だけがやけに大きく脈打っていた。

視線を巡らせると、部屋の奥のソファに一人の男が座っていた。

彼は足を組み、革張りのソファに深く身を預けている。 距離があり、顔の輪郭は判然としない。

薄闇の中、赤い火種だけが点滅し、ふわりと紫煙の香りが漂う。

凪はひとつ深呼吸をすると、男へと歩み寄った。

そこでようやく、彼の顔がはっきりと見えた。 写真写りが、ひどく悪い男なのだと知る。

実物は比べものにならないほど端正で、ただひとつ違うのは、その肌が写真で見るよりさらに血の気を失っていることだった。

黒いシャツの襟元はわずかに開かれ、そこから覗く喉と鎖骨が妙に艶めかしい。

病的なまでの白さが、その彫りの深い精緻な顔立ちに、どこか中性的な危うさを与えている。

だが、その瞳に宿る光は強く、死の淵にいる人間のそれとは思えなかった。

この容姿ならば、たしかに多くの女が彼の子を産みたいと願うのも頷ける。

さらに近づき、凪は彼が手に婚姻届を持っていることに気づいた。

そうだ、あの婚姻届は――あの時、彼の母親に取り上げられたはずではなかったか。

息子のために婚姻届を作成しておきながら、本人に知らせないわけがない。

逃げ切れると考えた自分が、あまりに甘かった。

「『人は財のために死に、鳥は食のために亡ぶ』。 聞いたことは?」浩司の目が、目の前の女を射抜くように見据える。

こんな時に自分と結婚しようという女など、金目当て以外にあり得ない。

その言葉は、凪への明確な警告だった。 金のために命を落とすこともあるのだと。 凪は、もはや逃げられないことを悟った。

いっそ開き直り、凪は唇の端をゆっくりと吊り上げて、挑発的な笑みを浮かべた。 「私があなたを心からお慕いしていて、この結婚をずっと前から計画していた、とはお考えになりませんか?」

浩司は、指に挟んだ煙草をぐっと握りしめ、その火を歪めた。

ずっと前から計画していた、か。 そういう人間がいないわけではない。 だが、こんな土壇場で都合よく現れるはずがない。

凪の言葉が虚構であることなど、その作り物めいた笑みを見れば一目瞭然だった。

彼は煙草を灰皿に捻じ込むと、揃えられた美しい指先で、凪を手招きした。

凪はごくりと唾を飲み込み、促されるままに、もう一歩彼へと近づいた。

浩司が組んでいた足を解き、 上体を起こす。 次の瞬間、 凪の手首が強く掴まれ、 力任せにその懐へと引き寄せられた。 不意を突かれた凪の体は彼の胸に倒れ込むが、

抵抗する間もなく体勢を整えさせられ、 その硬い膝の上に向かい合うように座らされた。

腰が太い腕でぐっと引き寄せられ、大きな手のひらが熱を主張するように当てがわれている。

コートの上からでも、押さえられた場所がじわりと熱を帯びていた。

凪が反応する隙も与えず、浩司は婚姻届の角で彼女の顎をくいと掬い上げる。 その昏い瞳に、あからさまな嘲りを浮かべて。 「俺を、慕っている、だと?」

心臓が早鐘を打つが、凪は平静を装った。 婚姻届の角が顎に食い込む不快感に耐え、堂々と彼の目を見つめ返す。 「九条市の独身女性でしたら、大抵の方があなたのことをお慕いしているかと存じます」

「フッ」

浩司は喉の奥で冷笑を漏らした。 「死ぬのは怖くないのか?」

「怖いですよ」

浩司はわずかに眉をひそめた。

凪は真顔で続ける。 「人は遅かれ早かれ死ぬものです。 死ぬ前に、お慕いする方と夫婦になれるのでしたら、もう思い残すことはありません」

出鱈目を、と浩司は心の中で吐き捨てた。

彼は力任せに凪を突き放すと、彼女が座っていた自身の太腿を、汚れでも払うかのように手で払った。 その嫌悪はあまりにも露骨だった。

「離婚だ」

凪は体勢を立て直し、彼が脇に放った婚姻届に目を落とすと、落ち着き払って言った。 「離婚には一ヶ月のクーリングオフ期間が設けられています」

浩司が目を上げる。 「俺にそんなものが必要だと思うか?」

凪は唇を固く結んだ。

たしかに、必要ない。

浩司が立ち上がる。 すらりとした長身は姿勢が良く、広い肩幅から腰にかけてのラインが引き締まっている。 まっすぐに伸びた脚が踏み出されると、スラックスの裾が凪のコートの裾を微かにかすめた。

彼は冷ややかに凪を一瞥する。 その眼差しに含まれた侮蔑に、凪は抱きかけた賛嘆を胸の内に押しとどめた。

「離婚はしません」

浩司は歩みを止め、その瞳に冷たい光を宿した。

凪は彼を真っ直ぐに見据える。 「遊びで申し上げているのではありません」

浩司が目を細める。

「よく考えた末の決断です」 凪は真剣な面持ちで続けた。 「あなたの妻になってこそ、大手を振ってお世話もできますし、お子も産めます」

「あなたに残された時間がどれほど少なくとも、私は後悔したくないのです。 私のわがままだと思ってください。 あなたと一緒にいられるなら、何だってします」

凪は感情を込めて語り、その目には涙さえ滲んでいた。

我ながら見事な即興の感情表現だと、凪は内心で自画自賛した。

浩司は彼女に歩み寄り、氷のような声で尋ねた。 「何だってする、と言ったな?」

彼の接近がもたらす威圧感に息を呑みながらも、凪は覚悟を決めて頷いた。 「もちろんです」

浩司の口角が、わずかに持ち上がる。

その浅い笑みに、凪は頭皮が粟立つのを感じた。

浩司はソファに座り直し、両脚をわずかに開いた。

「跪け」

凪は自分の耳を疑った。

開かれた彼の脚、陰湿な眼差し、氷のように冷たい声。 そのすべてが、彼女が聞き間違えていないことを告げていた。

「それすらできないのか?」

奏が言っていた変態の意味を、凪はようやく理解した。

浩司の目に浮かぶ軽蔑の色を読み取り、凪は眉をひそめる。 だが、彼女は無言でコートを脱いでソファに放ると、ほどけかけた髪を手早くゴムで一つに束ね、ためらうことなく彼の脚をまたぎ、その両膝の間に跪いた。

「これでよろしいですか?」

その体勢では、凪の方が浩司よりわずかに高くなる。 伏し目がちに見下ろすと、彼の目に一瞬の驚きがよぎるのが見えた。

体にフィットした黒いウールのセーターが、彼女の豊かな体の曲線を浩司の目の前に惜しげもなく晒している。 ジーンズに包まれた引き締まったヒップと、しなやかに伸びた腰のライン。

二人の距離は吐息が触れ合うほど近く、 互いの呼吸が混じり合う。 その姿勢はあまりに蠱惑的で、

艶やかな場面の始まりを予感させた。

凪は妖婦そのものだった。 婚姻届の写真で見た姿よりも、ずっと。

流し目がちな瞳、狐のように吊り上がった目尻、そして浅い笑み。 そのすべてが男を誘っている。

浩司は両腕を広げてソファの背もたれに預け、その深い瞳に彼女の妖艶な微笑みを映し込んだ。

「脱げ」

冷ややかに色の薄い唇が、わずかに開いてその一言を紡いだ。

凪は一瞬たりとも動じることなく、息を整えると、彼が纏う黒いシャツへと手を伸ばした。

玉のように白い指が黒いボタンの上に置かれると、まるで白と黒の碁石が触れ合うようなコントラストが生まれた。

凪は震えを押し殺した指先で、ひとつ、またひとつと彼のボタンを外していく。 ボタンがホールから抜けるたび、彼の胸元が露わになっていく。

日に焼けることを知らない冷たい白さの肌には、野性的なそれとはまた違う、禁欲的な色気があった。

一つ。

二つ。

肌の露出が増えていく。

凪は息を詰める。 先ほどまでの余裕を湛えた笑みは、もはや仮面のように剥がれ落ちそうだった。

凪がわずかに顔を上げると、浩司はただ淡々と彼女を見下ろしている。 その表情なき貌は、まるで玉座から臣下を見下ろす王のようだった。

そして、彼の瞳には、自分が慰みもの――彼を楽しませるための玩具に過ぎないのだと、はっきりと映し出されていた。

凪は再び意を決してボタンに手をかける。 だが、その指が彼の腹筋に触れたか触れないかの刹那、手首を強く掴まれた。

凪が顔を上げると、底知れぬ闇を湛えた瞳と視線がかち合う。 心臓が大きく跳ねた。

「遅い。 そんな手つきでは、 いつになったら子供ができる?」 嘲るような声に、

凪の呼吸が乱れた。

ここで逃げ出すわけにはいかない。

彼女は再び唇に笑みを乗せた。 「いきなり乱暴にはできません。 ……情熱が燃え上がった時にできた子の方が、美しく賢明に育つと申しますから」

浩司は目を細めた。 「そうか?」

「ええ」 凪は答えながら、空いている方の手で、大胆にも彼のシャツの下から素肌に触れようとした。

だが、その手もまた、浩司によって素早く阻まれた。 「俺のだけ脱がせて、どうするつもりだ?」

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