
社長に後継者はいない?口のきけない娘と結婚して、急に幸せになった。
章 2
「佐本君ッ!」
ソファの中央に鎮座していた白髪の老人の、雷鳴のような怒声がホールに響き渡った。 杖で床を鋭く突き鳴らし、震える体でやおら立ち上がると、鬼の形相で佐本知也を睨めつける。 「この期に及んで、わしに何か申し開きのひとつでもあるのだろうな?」
「若者の色恋沙汰に口を出すつもりはない。 だが、この一件は話が別だ。 我々東海林家が、これまでどれだけ貴様の面倒を見てやったと思っている。 東海林グループ銀行からの融資がなければ、お前の会社などとうの昔に潰れていただろうが」
再び痛いところを突かれ、知也の顔からサッと血の気が引いた。 しかし、なけなしのプライドを押し殺し、深く頭を下げる以外になかった。 「東海林様から賜りましたご恩、片時も忘れたことはございません。 ですが……」
苦々しい視線が、娘の佐本清祢へと突き刺さる。 この恥知らずめ。 我が家の財産を食い潰す穀潰しが、と怒りに任せて八つ裂きにしてやりたいほどの憎悪が、その目に宿っていた。
もはや、歯を食いしばって婚約破棄を申し出るしかない。
「婚約は、断じて反故にはできん」知也の心中を見透かしたように、東海林家の当主が冷たく言い放った。
「じいさん、冗談じゃない! あんなふしだらな女、誰が嫁にもらうもんか! 口がきけないだけでも厄介なのに、どこの馬の骨とも知れない男と寝たんだぞ!」 東海林様景は怒りに我を忘れ、祖父が一族の利益のために自分を無理やり結婚させるのではないかと恐れた。 「この俺を衆目の前で笑いものにするつもりか!」
はじめは、清祢を娶ることに渋々ながらも同意していた。 あの女の容姿とスタイルは、北都市中を探してもそうは見つからない極上品だったからだ。
だが、まさか口のきけない唖だったとは。 それを思うたび、様景は顔に泥を塗られたような屈辱を覚える。
抱いたところで、ベッドの上で声ひとつ出せない女なのだ。
それに、もとより彼が好んでいたのは、奔放で愛嬌のある義妹、佐本ももの方だった。
幼馴染の二人はとっくに関係を持っており、 一夜の過ちの後、
ももは泣きながら彼に責任を求めてきた。 様景の心は揺れた。 どうせ飾りの嫁を娶るなら、多少見劣りしたとて、気立ての良い女の方がいい。
少なくとも、あの陰気で、すぐに不機嫌な顔をする唖よりはずっとましだ。
昨夜の騒ぎも、婚約を破棄する口実を作るために、彼が仕組んだ芝居に過ぎない。
ももの見張りがなければ、わざわざ他の男に清祢を寝取らせる必要もなかった。
ただで女を抱ける絶好の機会だったというのに、どこの馬の骨がその幸運を手にしたのかと思うと、腹立たしくて仕方がない。
様景は、剥き出しになった清祢の白く滑らかな肌を、舌なめずりでもするかのような粘っこい視線で見つめ、昨夜の情景をいやらしく幻視していた。
その視線に気づいた佐本ももは、表情を一層曇らせる。 憎悪が、黒い炎のように心の中で燃え盛っていた。 必ず清祢を破滅させ、二度と立ち上がれなくしてやる、と。
「お姉様、早く様景お兄様に謝って」 ももの甘ったるい声が、張り詰めた場の空気を揺らした。
東海林大資は険しい顔でしばし黙考していたが、やがて重々しく口を開いた。 「婚約は反故にはできん。 ……佐本家には、娘が一人しかおらんわけではあるまい」
その言葉が放たれた瞬間、ホールにいた全員の視線が、並んで立つ姉妹へと一斉に注がれた。
さっきまで婚約破棄を叫んでいた様景は、駄々をこねていた子供が飴を与えられたように、ぴたりと静かになった。
ももの頬にも、疑念を誘うような赤みが差し、恥じらうように母である佐本琴葉の後ろに隠れる。 その仕草が、いかにも純真無垢な少女のように見えた。
清祢は、ただその場に凍りついたように立ち尽くす。 婚約者と義妹が交わす視線の熱に、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。 すべてを悟ってしまった。
ホールに集まった客たちの囁き声が、波のように広がる。 佐本家の内情は、もはや公然の秘密だった。
数年前、佐本家は子供を一人亡くし、佐本夫人の心は日に日に病んでいった。 一日も早く日常を取り戻すため、夫妻は清祢と年頃の近い少女を孤児院から養子に迎えた。 佐本ももと名付けられたその子を、一家は掌中の珠のように慈しんだ。
十数年の歳月が流れたある日、警察から一本の連絡が入る。 遺伝子データベースから、行方不明だった令嬢のDNAが発見された、と。
噂は瞬く間に街中を駆け巡った。 体面を重んじる佐本家は、外で苦労を重ねてきた実の娘を家に迎え入れたが、養女を追い出すことはせず、対外的には娘が二人いると公表した。
本来なら、美談として終わるはずだった。
しかし、実の令嬢である清祢は、あまりに過酷な歳月を送ってきた。 十七歳の時、育ての親である大西あゆみが交通事故で亡くなった衝撃から、心的外傷による失語症を患い、言葉を失ってしまったのだ。
本物の令嬢と偽物の令嬢。 容姿、 気品、 立ち居振る舞い、 そのどれをとっても清祢は養女の妹を圧倒していたが、 ただ一点、 口がきけないという致命的な欠点があった。
佐本家と東海林家の縁談もまた、周知の事実だった。 数年前、佐本家が経営危機に陥った際、東海林グループ銀行が巨額の融資を行い、倒産の淵から救ったのだ。
佐本家の事業が息を吹き返したのは、ひとえに東海林家の力添えあってこそ。
両家は、より強固な利益共同体となるべく、子供たちの政略結婚を約束した。 当初、その相手は佐本家で育ったももになるはずだった。 彼女と様景は幼馴染で、気心も知れていたからだ。
だが、東海林家は利益の確実性を重んじ、佐本家の血を引く清祢を嫁に指名した。
いつか佐本家が恩を仇で返すことを、東海林家が恐れていたのは誰の目にも明らかだった。
そして今、清祢の醜聞がこれほどまでに知れ渡った以上、もはや彼女が東海林家の嫁として迎え入れられることはないだろう。 だが、一族の利益は守らねばならない。 大資は一歩譲り、養女であるももを代わりに受け入れることを示唆したのだ。
「あの子はまだ若うございます。 もう少し、手元に置いておきたいと……」 それまで沈黙を守っていた佐本琴葉が、愛する下の娘を庇うように、か細い声で口を挟んだ。
清祢は、冷え切った瞳で実の母親を見つめた。 この婚約が決まった時、誰一人として彼女の意思を尋ねなかった。 両家の利益のためだけに、無理やり押し付けられた結婚だった。 自分は良くて、ももは駄目だというのか?
清祢の唇に、自嘲の笑みが浮かぶ。 この部屋に、自分の味方は一人もいない。 実の親でさえ、無意識のうちに養女であるももを庇い、自分を疎んでいる。
一体、どちらが佐本家の実の娘なのだろうか?
目の前の義妹を、氷のような視線で見つめる。 この家に引き取られたばかりの頃、両親はももが傷つくことを恐れ、すべての愛情を彼女に注いだ。
実際の誕生日は、ももより自分のほうが二日遅いだけだ。 だが、それが何だというのか。
自分はもものように甘え上手でもなく、言葉さえ発せない。 十七歳で初めて会った娘に、親としての情など湧くはずもなかったのだろう。
私の部屋は、物置同然のメイド部屋の隣。 対するももは、陽光あふれる広々としたプリンセスルーム。
私の学費と生活費は、月一万円。 揺れるバスに乗り、公立の学校へ通った。
それなのに琴葉はももの身を案じ、専属の運転手をつけ、家政婦は毎日豪勢な食事を用意し、飽きれば五つ星レストランへ連れて行く。 小遣いは限度額なしのクレジットカードだ。
私は公立の寄宿学校へ。 ももは北都市の超名門貴族学校へ。
私のクローゼットには、育ての親の家から持ってきた古着が数枚。 ももは、数えきれないほどのドレスとブランドバッグ。
ももの成人祝いは、真っ赤なスポーツカー。 私の十八歳の誕生日を覚えている者など、誰一人いなかった。
二人の誕生日は、たった二日違い。 毎年、もものためには盛大なパーティーが開かれるというのに、私には小さなケーキの一切れすらなかった! 誰も、私の生まれた日を覚えてはいないのだ。
彼らは、ももが政略結婚の犠牲になることを憐れむ。 けれど、見ず知らずの男に嫁がされる私の気持ちなど、誰一人として考えようともしない。 一体、どちらが佐本家の実の娘なのだろうか?
誰が見ても、蝶よ花よと育てられたももの方だろう。
親には愛されず、婚約者は義妹と情を交わし、私は衆人環視の中で辱めを受ける。
私の人生そのものが、壮大な茶番劇ではないか。 *****
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