
社長に後継者はいない?口のきけない娘と結婚して、急に幸せになった。
章 3
あの日、どうやって佐本家を後にしたのか、清祢の記憶は曖昧な霧に包まれていた。 ただ覚えているのは、もう二度とあの家の敷居は跨ぐまいと、心に固く誓ったことだけ。 三日と空けずスマートフォンを震わせ、結婚の幸福をこれ見よがしに突きつけてくる。
清祢が借りたのは、会社のほど近くにある、四十平米ほどの小さな城。 殺風景なワンルームにバスルームがひとつ。 最低限の家具だけが置かれたその空間は、しかし、誰にも邪魔されない彼女だけの聖域だった。
狂ったように更新され続ける、佐本もものインスタグラム。 清祢はうんざりして彼女をブロックしようとしたが、指が滑り、誤ってそのページを開いてしまった。
画面の中のももは、相変わらず虚栄心の塊だった。 佐本家のリビングに山と積まれた宝飾品の隣に、分厚い不動産権利証の束がこれ見よがしに置かれている。
添えられたコメントが、清祢の神経を逆撫でする――「これがパパとママがくれた余裕ってやつ。 23歳で二億円の嫁入り道具を全額キャッシュでゲット。 自分の力じゃないよ、全部親のスネかじり」
さらに過去の投稿を遡ると、そこにはきらびやかな名家の令嬢の日常が、飽きることなく綴られていた。 乗り切れないほどのスーパーカー、有名ブランドのバッグの壁、クローゼットを埋め尽くすオートクチュールと宝石の海。 時折投稿される家族LINEのスクリーンショットでは、氷のように冷たいはずの父・佐本知也が冗談を飛ばし、ヒステリックな母・佐本琴葉が聖母のような微笑みを浮かべている。 こんな光景を見せられて、誰が羨まずにいられようか。
乾いた笑いがこみ上げた。 家族グループのメンバーは三人。 ――そこに、自分の居場所はない。
佐本知也と佐本琴葉とのやり取りは、彼女を政略結婚の駒として東海林家へ差し出した、あの日の会話で止まったままだ。 彼らは、慈悲深い親の仮面を被ってこう言ったのだ―― 「清祢、結納金はパパとママが預かっておくわ。 あなたが持っていっても、どうせ東海林家のものになるだけだから。 嫁入り道具もちゃんと考えたのよ。 上質なシルクの布団を何枚かあつらえたから、全部持っていきなさい」
笑止千万だ。 当時の自分は、その言葉に愚かにも胸を熱くしてしまったのだから。
血の繋がらない養女の結婚には、家や高級車を惜しげもなく与え、リビングが埋まるほどの翡翠やダイヤモンドを贈り、「裕福な東海林家に嫁いで肩身の狭い思いをしないように」と心を砕く。 その一方で、実の娘である自分には、布団数枚で体裁を整えようとした。
清祢は、佐本家の両親とあのぶりっ子の妹のアカウントを、指先ひとつでブロックし、削除した。 自分の評判など、とうに地に落ちている。 これ以上、彼らの目の前で恥を晒すなと、そう望んでいるのだろう。
深く息を吸い、渦巻く感情を心の底に押し込めて、出勤の準備を始めた。 仕事用の制服の下には、タートルネックの薄手のインナーを一枚。 肌に刻まれた、生々しいキスマークの痕を隠すために。
清祢の職場は、全国の主要都市に支店を持つ高級プライベートバンク、利生銀行。 彼女は北都市本店で融資業務を担当し、申請の評価と管理を一手に担っている。
その業務能力は高く、部署内の融資案件はすべて彼女の承認を経て、最終確認の後、古藤光佑課長へと報告されるのが通例だった。
声を失った彼女にとって、顧客訪問は常に高い壁となって立ちはだかる。 手話は、必ずしも万人に通じる言葉ではなかったからだ。 それでも、大学で財務金融と経営管理の複数学位を取得した彼女の才を買い、利生銀行は異例の採用に踏み切った。 これも昇利銀行が彼女を例外的に採用した理由の一つだ。
そして何より、 この銀行に入れたのは、 先輩である古藤光佑が口利きで推薦枠を確保してくれたおかげだった。
「清祢さん、加賀見財閥のベンチャーキャピタルから、 建築入札に関するクレジット資料です。可及的速やかに。 上層部も加賀見との繋がりを熱望している。 なんといっても、あそこの年間資金流動は十桁を超える。 長期的な協力関係が築ければ、我々の部署の年末ボーナスも十倍だと息巻いていますよ」 光佑の物腰は柔らかく、その人好きのする笑みは、行内の若い女性たちをいつもときめかせている。
清祢は静かに頷いた。 こと業務に関しては、彼女の右に出る者はいない。
「来月の三日、私はオトレシュ連邦へ出張します。 私の代わりに、加賀見靖隆氏の誕生祝賀会へ顔を出していただけませんか?」
そう言って光佑は、金箔が施された豪奢な赤い招待状を、もう一枚彼女の前に滑らせた。 清祢の眉がわずかに寄せられる。
「ドレスは手配済みです。 君は私が用意したプレゼントを持って、会場に顔を見せるだけでいい」 光佑はすべてを整えた上で、諭すように彼女の頭を優しく撫でた。
その仕草はあまりに親密で、清祢は戸惑いを覚えたが、今はそれどころではなかった。 彼女は困惑したまま、手話で問いかける。
【私が、ですか?】
後輩の不安を即座に察し、光佑は少し胸を痛めた。 「私の代理としてプレゼントを渡すだけです。 誰かと話す必要はありません」
それでも清祢は反射的に首を横に振ろうとした。 先輩に恥をかかせるわけにはいかない。 すべてを台無しにしてしまうのが怖かった。 光佑は、彼女を安心させるように最後の一押しをする。 「加賀見財閥のクレジット案件を獲得するには、どうしてもこの繋がりが要るんです。 父に頼み込んで、ようやく一枚、招待状を融通してもらえたんですよ」
先輩には、拾ってもらった恩がある。 お使いどころか、火の中水の中でも飛び込んで恩返しをしなければ。 ましてや、加賀見家との繋がりを欲しても、その糸口すら掴めない者がごまんといるのだ。 それは、またとない好機に他ならなかった。
【はい!ぜひ、行かせていただきます!】 清祢は、感謝を込めた笑顔で力強く頷いた。
一ヶ月後。 加賀見家の本邸前は、途切れることのない高級車の列で埋め尽くされていた。
清祢は黒檀の木箱を抱え、タクシーの運転手に合図して路肩に寄せてもらった。 きらびやかな車の列に混じって注目を浴びるより、少し歩く方を選んだのだ。
すっと伸びた背筋に、際立つ容姿。 彼女は人混みに紛れてもなお、鶴が舞い降りたかのような存在感を放っていた。
渋滞で停まる車の中から、幾筋もの視線が彼女に注がれるのを感じる。
光佑が用意したのは、アプリコット色のドレス。 複雑で手の込んだデザインが、彼女の完璧なネックラインと華奢なウエストを際立たせている。 長い髪はうなじのあたりでシンプルにまとめ、宝飾品は一切なし。 それゆえに、磨かれたような白い肌が、見る者の目を惹きつけて離さなかった。
清祢は足早に進み、招待状を手に使用人の案内で加賀見家の屋敷へと入った。
彼女が足を踏み入れた直後、威圧感を放つ一台の黒いベントレーが、静かにメインロードを滑り込み、最も良い駐車スペースに収まった。
後部座席の男は、完璧に仕立てられたオーダーメイドのスーツを気だるげに着こなし、長い脚を組んでいる。 加賀見芳成は、今日のきらびやかな名利の場に、心底興味がなさそうだった。
芳成は重い瞼をわずかに持ち上げ、隣の執事に声をかける。 「おい、婆さんは、ようやく菩薩様の元からお戻りになる気になったのか?」
「大奥様は二ヶ月前にお言葉を。 まずは芳成様が会社の業務に慣れるのが先決ゆえ、仏道修行を終えてからお戻りになると。 ちょうど大旦那様の誕生祝賀会に間に合い、ご家族皆様がお揃いになります」
執事は自ら芳成のためにドアを開けた。 後ろに連なる車の列など意にも介さない。 彼らは皆、加賀見靖隆の八十歳の誕生祝いに「参列する」者たち。 だが芳成は違う。ただ「家」に帰ってきただけなのだ。
五年ぶりに戻った屋敷は、見知らぬようでいて、どこか懐かしかった。 庭ではメイドたちが忙しなく立ち働き、食前酒とデザートが並ぶ。 賓客たちのざわめきが、音楽噴水の水音に溶け込んでいた。 彼は冷ややかな表情で屋敷に足を踏み入れる。その非凡な貌立ちは、当然のようにその場の注目を一身に集めた。
仕立ての良いスーツを纏った芳成は、ひときわ目を引いた。 眉目は怜悧で、切れ長の瞳は底知れぬほど深く、そして無関心。 すっと通った鼻筋。
その完璧すぎるほどの容貌は、居合わせた若い令嬢たちの視線を否応なく惹きつける。 しかし、彼が放つあまりに強大なオーラと近寄りがたい威圧感に、誰もが気圧され、声をかけることすらできなかった。
清祢は、こういう華やかな場がどうしようもなく苦手だった。 受付で光佑からの贈り物を渡すと早々に興味を失い、人目を避けて隅へと身を寄せた。 目の前の豪奢な食事やデザートに、めまいと吐き気がこみ上げてくる。 最近ずっと胃の調子が悪く、何か悪いものでも食べたのかもしれない。
「お姉さん、なんでこんなところにいるの?」
ももはどこからか招待状を手に入れたのだろう、孔雀が羽を広げるように華美に着飾り、得意げに会場を闊歩しては招待客たちと談笑している。 シャンパングラスを持つ仕草もわざとらしく、右手の薬指にはめられた大粒のダイヤモンドが、これ見よがしに煌めいていた。
その指輪には見覚えがあった。 婚約披露宴で東海林家が彼女のために用意したものだ。 それがたった二ヶ月で、ももの指を飾っている。
これ以上関わりたくない。 面倒はごめんだ。 清祢は背を向けてその場を去ろうとしたが、行く手を阻まれた。
「お姉さん、この間のスキャンダル、街中の噂よ。 今日みたいな大事な席、私があなたなら、パパとママに恥をかかせないように家でおとなしくしてるけど !」
清祢はすっと伏せていた瞼を上げた。挑発には乗らない。その美しく妖艶な双眸が、氷のような光を宿して目の前の妹を見据える。 ももの浅はかな魂胆など、手に取るようにわかる。 自分を挑発して怒らせ、この加賀見家のパーティーで醜態を演じさせる。 そして、そのすべての責任を自分に被せる――それが狙いだ。
そんな稚拙な手に乗るつもりは毛頭なく、清祢は再び背を向け、歩き出した。
しかし、長く複雑なドレスの裾を、何者かの靴先が強く踏みつけた。 不意にバランスを崩した清祢の身体が、前方へと傾ぐ。
次の瞬間、 高く積まれたシャンパンタワーが、 けたたましい破壊音を立てて芝生の上に崩れ落ちた。 その轟音に、会場中の視線が一斉に突き刺さる。 *****
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