社長に後継者はいない?口のきけない娘と結婚して、急に幸せになった。 の小説カバー

社長に後継者はいない?口のきけない娘と結婚して、急に幸せになった。

7.9 / 10.0
佐本清祢は加賀見芳成の妻となったが、その生活は苦難に満ちていた。周囲の全ての人々に裏切られ、絶望の淵に立たされた彼女にとって、夫である芳成だけが唯一の希望だった。しかし、結婚から三年が経過しても、清祢の心は癒えるどころか傷つくばかりであった。愛する我が子を失うという悲劇に見舞われ、さらには夫の愛人から堂々と挑発を受ける日々。芳成が自分を蔑ろにする状況に耐えかねた彼女は、ついに彼への愛を捨て去る決意を固める。一方の芳成は、清祢が常に自分の傍にいるものだと過信し、彼女を軽視し続けていた。だが、彼女が一切の未練を見せずに去ろうとした瞬間、彼は初めて取り返しのつかない喪失感に襲われ、激しく動揺する。「私たちはもう終わったの」と告げる彼女に対し、芳成は涙を浮かべながら、必死にその存在を引き止めようとする。過去の痛みと向き合い、自らの本心を見つめ直した清祢は、葛藤の末にもう一度だけ愛を信じる道を選び取ることになる。冷え切った夫婦関係の果てに、二人が辿り着く真実の愛の形を描く物語。

社長に後継者はいない?口のきけない娘と結婚して、急に幸せになった。 第1章

「……痛むか?」

男の荒い息遣いだけが、部屋に充満している。 身の下の女はひどく抵抗し、男は何度も試みを繰り返さなければならなかった。

アルコールのせいか、男は片手で女のしなやかな腰を支え、まるで手取り足取り教えるかのように、自身を受け入れさせた。

夜が白み始める頃、ようやく部屋の中で重なり合っていた二つの影は静かになった。

浴室から響くシャワーの音で、佐本清祢は深い眠りから意識を浮上させた。 シーツを胸元まで固く引き寄せ、霞のかかった頭で昨夜の記憶の糸を必死に手繰り寄せようとする。

昨日は、長年寄り添ってきた婚約者、東海林様景との婚約披露宴だった。

儀式は盛大で、招待客は佐本、東海林両家の取引先ばかり。 夜には様景の友人たちが集まる席が設けられたが、口のきけない彼女は断る術を知らず、立て続けに酒を飲まされた。 最後の記憶は、様景が自分を最上階のプレジデンシャルスイートへ送り届けてくれたところまで。

その後、ぷつりと意識が途切れ、アルコールに煽られた男女が、求め合うままに激しく肌を重ねた。

やがてシャワーの音が止み、湯気の向こうから、腰にタオルを一枚巻いただけの男が現れる。 広い肩幅、引き締まった腰。 水滴が、鍛え上げられた筋肉の筋をなぞるように滑り落ちていく。

初めての夜を越えた清祢は、羞恥心に顔を背けた。 昨夜の熱い肌の記憶が蘇り、顔が熱くなる。

「起きたか?」 加賀見芳成は眉を上げ、ベッドの上で縮こまる女に目をやった。 白い頬には疑わしいほどの緋色が残り、弾けば壊れてしまいそうなその肌から目が離せない。 彼はさながら満腹の獣のように、満足げに己の獲物を見つめていた。

――この声は、様景じゃない!

清祢は弾かれたように顔を上げ、男と視線がぶつかる。 そこには侵略的な光を宿した、漆黒の桃花眼があった。

彼女は一瞬、顔色を失って青ざめ、相手の顔をはっきり見た途端、全身の血が頭に上り、脳が真っ白になり、涙がぽろぽろとシーツに落ちた。

男の顔をはっきりと認識した瞬間、昨夜の甘美な記憶は、残酷な悪夢へと姿を変えた。

ぽつり、とシーツに落ちた雫が、堰を切ったように溢れ出す。 彼女は全身をわななかせ、絶望と無力感に襲われながら、震える指先で必死に問いかける。

「あなたは、誰?」

「どうしてここにいるの?」

「昨夜の人は……あなただったの?」

女は口が利けないのか? 加賀見芳成の目に、わずかな驚きがよぎった。

どうりで昨夜、あれほど痛みに耐えながらも、声一つ漏らさず涙を流すだけだったわけだ。

芳成は彼女を品定めするように見つめる。 その視線は彼女の肌の上を這い、瞳の奥の感情はますます読み取れなくなっていく。

芳成は深呼吸を一つし、こめかみを引きつらせた。 怒りがこみ上げてくる。 帰国したばかりの昨夜、旧友たちに無理やり酒を飲まされ、餞別だとルームキーを押し付けられたのだ。

薄暗い部屋の中、互いに泥酔していたとはいえ、最初にキスを仕掛けてきたのはこの女の方だった。 それを情熱的だと感じてしまい、相手の素性を確かめもせずに抱いてしまった。

昨夜はあれほど積極的だったくせに、今さら何を貞淑ぶっているのか。 芳成は女を持て余し、侮蔑に口の端を歪めて吐き捨てるように言った。 「手話は分からん。 服を着てとっとと消えろ」

いつまでもこうしてはいられない。 清祢は男がそっぽを向いた隙に、慌ててドレスに袖を通す。 だが、肌着は無残に引き裂かれ、もはや身につけられる状態ではなかった。

彼女がなんとか身支度を終え、男の前に立つ。

芳成は傍らに立ち、朝の光の中に佇む女の姿に、一瞬、我を忘れた。

小さな瓜実顔に、潤んだ瞳。 桜色の唇は誘うようにわずかに腫れている。 長い髪は乱れたまま胸元にかかり、光を放つように白い肌が痛々しいほど目に映る。 泣き腫らした目はひどく赤いが、その狼狽した姿さえも、実に美しかった。

ふと、くしゃくしゃになった白いシーツの上に、暗く、それでいて鮮烈な一点の赤が滲んでいるのが目に入った。

芳成は無意識に喉仏を上下させた。

女が出て行く気配がないのを見て、芳成は合点がいったように、財布から分厚いドルの束を抜き出し、無造作に彼女の手に押し付けた。

「これで足りるか?」 彼が見てきた女たちは皆こうだった。 だが、芳成の言葉が終わる前に、女は札束を彼の体に叩きつけた。

彼は目を細め、全身から危険な気配を放つ。「なんだ、 足りないのか? 仲介した奴が俺の友人から大金を受け取ったと聞いているが。 体を売る前に相場も調べなかったのか? それとも、 大物を釣るために長期戦でも狙うつもりか? 夢を見るな……」

パァン!と乾いた音が響き、芳成は打たれて呆然とした。 口の中に広がった鉄の味を吐き捨てると、その目に殺意にも似た獰猛な光を宿す。「聞け!てめえがどうやってこの部屋に紛れ込んだか知らねえが、 昨夜はてめえからキスしてきたんだろうが。 今さら被害者ぶるな……!」

清祢はもう何も聞きたくなかった。 床に散らばる緑の紙片を踏みしめ、半狂乱で部屋を飛び出した。

大通りでかろうじてタクシーを捕まえ、スマートフォンの電源を入れると、無数の不在着信とメッセージが画面を埋め尽くした。

メモ帳に行き先を打ち込み、運転手に見せる。

流れゆく景色のように、清祢の心もまた千々に乱れていた。 男の言葉が耳にこびりついて離れない――お前の方からキスしてきたんだ。 なぜ。 どうして一夜を共にした相手が、見ず知らずの男だったのか。

車は壮麗な邸宅の前で停まった。 一刻も早くこの身を隠したい、シャワーで全てを洗い流したい一心で、清祢は屋敷へと駆け込んだ。

だが、全ては手遅れだった。 邸宅の広大なリビングは、水を打ったように静まり返っていた。そこにいる全員の視線が、刃のように清祢に突き刺さる。

乱れた髪、泣き崩れた化粧、真っ赤に充血した瞳、深く刻まれたドレスの皺、そして何より――白い首筋に生々しく咲く、いくつかの赤い痕が、彼女の過ごした背徳の夜を雄弁に物語っていた。

やがて、妹の佐本ももが甘ったるい声で静寂を破った。 「まあ、お姉様、どこにいらしてたの?みんなで一晩中探したのよ。 様景お兄様なんて、心配のあまり警察を呼ぶところだったんですから」

東海林様景は氷のように冷たい表情で、清祢の首筋の痕に視線を突き刺した。 「どこへ行っていた?その様はなんだ?」 両親までもが、汚物でも見るかのように、侮蔑と嫌悪、そして憎しみに満ちた眼差しで彼女を上から下まで値踏みしている。

悔しさと、混乱と、無力感と、恐怖が濁流のように押し寄せる。 声にならない叫びを、彼女は最も信頼していた婚約者へ、必死に手で訴えかけた。

「どこにいたの!どうして私をホテルに一人にしたの?」

様景は手話をある程度解するはずなのに、冷ややかに眉をひそめるだけだった。 彼は己が能弁であることを盾に、反論する術を持たない清祢へと、全ての罪をなすりつけた。

「俺たちはもう婚約した仲だぞ。 一晩中帰りもせず、どこの馬の骨とも知れん男の痕をつけて帰ってくる……俺の気持ちを考えたことがあるのか!」 様景は声を荒らげ、額に青筋を立てる。 その姿は、一途な想いを裏切られた、悲劇の男そのものだった。

周囲から同情的な囁き声が聞こえてくる。

「あんなみっともない姿で、よく東海林様の前に立てるわね……」

「どんな躾をされてるのかしら。 婚約者がいながら外で男遊びなんて。結婚したところでろくなものじゃないわ」

人混みの中から、聞くに忍びない陰口が聞こえてきた。 誰も彼女を信じない。 四周は聞くに堪えない非難と罵声、そして下品な噂話で満ちている。

清祢は呆然としていた。 昨夜、酔った自分を最上階の部屋へ送り届けたのは、間違いなく様景だったはずだ。

彼女は言葉を発せない。 そして誰も、彼女の言葉なき言葉を信じようとはしない。

清祢は何度も手話で訴える――「違うの、話を聞いて!」

だが様景はあまりに性急に、大勢の前で最も残酷な言葉を投げつけ、彼女の最後の尊厳を完膚なきまでに踏みにじった。

「俺と婚約したその舌の根も乾かぬうちに、他の男と寝るとはな。 佐本清祢、お前がそこまでふしだらな女だったとは見損なった」

清祢の手話が止まり、両腕が力なく垂れ下がる。 光を失った瞳から、涙だけが静かに流れ落ちた。

「佐本清祢、この東海林様景は、ふしだらな女を妻に迎えるつもりはない。 婚約は、破棄させてもらう。 円満にな」

「私じゃない……あなたが、仕組んだの?」 狂ったように様景の襟首を掴んだ清祢の目に、彼の首筋に刻まれた、見覚えのある赤い痕が飛び込んできた。 彼女がその意味を悟るより早く、乾いた衝撃が頬を打った。

父、佐本知也の手が、殴った力でわななく。 彼は怒りを抑えきれず、娘の鼻先を指差して罵倒した。 「この恥知らずが!我が家の面汚しめ!」

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