
運命を変える婚姻届
章 2
豊永楓夏 POV:
柏木家のリビングから聞こえる笑い声は, 私の心臓に鋭い刃のように突き刺さった. 彼らは, 私がこの家を出ていくことに, どれほどの喜びを感じるだろうか. きっと, 邪魔者がいなくなって清々しているに違いない. 柏木恵美子は, 表向きは私に優しく接するが, その本心では私の自己犠牲を当然のものと考えている. 彼女にとって, 私はただの便利な使用人であり, 千佳の影で生きる存在なのだ.
これからは, 自分の人生のために生きる.
私は, 自分の部屋に戻り, 専門学校の入学案内を広げた. パティシエになるという夢. 前世では, 凛香さんと千佳のために諦めた夢だ. しかし, 今世では違う. 私は, この夢を必ず叶える.
その日の夜, 私は柏木家のリビングで, 恵美子さんと凛香さんが千佳に甘えている声を耳にした.
「千佳, 今日は疲れたでしょう? 凛香さんがずっと心配してたのよ. 」恵美子さんの甘ったるい声が聞こえる.
「ええ, 少しね. でも, 凛香兄さんがいてくれたから, 大丈夫だったわ. 」千佳の, か細い, しかしどこか計算された声が続く.
私の心臓が, きしむように痛んだ. 彼らは, 私がいる前でも, 平気でこんな会話をする. 私を, 自分たちの都合の良い道具としか思っていない証拠だ.
「楓夏さん, 大丈夫かしら? 私, 楓夏さんが怒っているんじゃないかって, 心配でたまらないの. 」千佳の声が, 突然私に向けられた.
私の名前が聞こえた瞬間, 思わず息を殺した. 千佳の言葉は, いつもこうだ. 一見, 私を気遣っているように見えて, 実は私を悪者に仕立て上げようとする.
「千佳, 大丈夫だよ. 楓夏は昔からああいう子だから. 少し放っておけば, また元に戻るさ. 」凛香さんの声が聞こえた. 彼の声には, 私への苛立ちと, 千佳を慰めるような響きが混じっていた.
私が昔からああいう子? 彼は, 私の何を知っているというのだろう. 私の心は, 凍り付いた.
「でも, もし楓夏さんが, 凛香兄さんとの結婚を嫌がったとしたら... 私, どうしたらいいか分からないわ. 」千佳が, すすり泣くような声を出した.
「千佳, そんなこと言うなよ. 楓夏は, 俺との結婚を望んでいる. それに, もし楓夏が俺を裏切るようなことがあれば, 俺は楓夏とは結婚しない. お前を傷つけるような奴は, 俺が許さない. 」凛香さんの声は, 千佳を強く抱きしめているかのように, 優しさに満ちていた. しかし, その言葉は私への明確な脅しだった.
私の心は, 粉々に砕け散った. 私は, この家から, この歪んだ関係から, 早く逃げ出さなければならない.
私は, そっと自分の部屋のドアを開け, リビングに続く廊下に出た. 凛香さんが, 千佳を抱きしめているのが見えた. 千佳は, 凛香さんの胸に顔を埋め, いかにもか弱そうに震えている.
凛香さんが, 私に気づいた. 彼の顔に, 一瞬の戸惑いが浮かんだが, すぐに冷たい表情に戻った.
「楓夏, どこへ行くんだ? 」彼の声は, 私を咎めるようだった.
「少し, 散歩に. 」私は, 冷たい声で答えた.
「ああ, そうか. 気を付けてな. 」凛香さんは, 私に背を向け, 再び千佳を抱きしめた.
私は, 過去の自分を思い出した. あの頃の私は, 凛香さんの言葉に一喜一憂し, 彼の愛情を必死に求めていた. しかし, 今の私は違う. 私は, もう彼の言葉に傷つくことはない.
凛香さんが, 私を呼び止めた. 「楓夏, 帰りが遅くなるなら, 連絡しろよ. 心配するだろう. 」
「ええ. 」私は, 冷たく答えた.
私は, 家を出た. 夜の冷たい空気が, 私の心を少しだけ落ち着かせた.
翌日, 私は荷物をまとめ始めた. 最低限の服と, 専門学校の教材. そして, 母が残してくれた, 小さなオルゴール. これだけあれば, 十分だ.
凛香さんと千佳は, 私が荷物をまとめていることに気づかないふりをしていた. 彼らの態度は, 私をこの家から追い出そうとしているかのようだった.
その日の午後, 千佳が, 私の部屋にやってきた. 彼女は, 私の大事にしていた, 白いレースのショールを身に着けていた. それは, 私が前に凛香さんと初めて二人で出かけた時に, 凛香さんがプレゼントしてくれたものだった.
「楓夏さん, このショール, 可愛いでしょう? 凛香兄さんが, 私に似合うって言ってくれたの. 」千佳は, 無邪気な笑顔で言った. しかし, その瞳の奥には, 私を嘲笑うような光が宿っていた.
私の心臓が, 激しく脈打った. あのショールは, 私の大切な思い出だった. しかし, 千佳はそれを平気で奪い, 私に見せびらかしている.
「そうね, 千佳に似合っているわ. 」私は, 冷たい声で答えた.
「あら, 楓夏さん, 怒ってるの? ごめんなさいね. でも, 凛香兄さんが, 楓夏さんには似合わないって言ってたのよ. 」千佳は, さらに私を煽るような言葉を続けた.
私の怒りが, 頂点に達した. しかし, 私は冷静さを保った. 私は, もう彼女たちのゲームには参加しない.
「そう. じゃあ, 千佳にあげるわ. 」私は, ショールを千佳から取り上げ, 彼女の腕に押し付けた.
千佳は, 驚いたように目を見開いた. 「え? いいの? 」
「ええ. もう, 要らないものだから. 」私は, 冷たく言い放った.
千佳は, 困惑した顔でショールを見つめている. 彼女は, 私がこんな態度に出ると思っていなかったのだろう.
「楓夏, 何をしているんだ? 」凛香さんの声が聞こえた. いつの間にか, 彼が部屋の入り口に立っていた. 彼の顔には, 苛立ちと, 私を咎めるような色が浮かんでいた.
「凛香さん, ごめんなさい. 楓夏さんが, 急に怒り出して…」千佳は, すぐに被害者ぶった.
「千佳, そのショールは, 俺が楓夏に贈ったものだ. 勝手に着るんじゃない. 」凛香さんは, 千佳を叱った. しかし, 彼の声には, どこか千佳を庇うような響きがあった.
「いいえ. もう, 私には必要ないものだから. 千佳にあげたわ. 」私は, 凛香さんの言葉を遮った.
凛香さんは, 驚いたように目を見開いた. 彼は, 私がこんな言葉を口にすると思っていなかったのだろう.
「楓夏, 何を言っているんだ? 」彼の声は, 怒りに震えていた.
「もう, あなたたちのものなんて, 何もいらないわ. 私には, 私の人生があるから. 」私は, 冷たく言い放った.
凛香さんは, 私に歩み寄ろうとした. しかし, 私は彼を避けるように, 部屋の入り口に立ちはだかった.
「楓夏, 待て! 」凛香さんの声が聞こえたが, 私は振り返らなかった.
私は, 自分の部屋に戻り, ドアに鍵をかけた. 私の心臓は, 激しく脈打っていた. しかし, その痛みは, 以前のような絶望ではなく, 解放感からくるものだった. 私は, 二度と彼らに傷つけられることはない.
私は, スーツケースを開け, 入学案内を取り出した. パティシエになるという夢. 私は, この夢を, 必ず叶える.
あの頃の私は, 柏木家に引き取られて以来, 常に控えめで, 献身的な性格だった. 両親を亡くし, 頼るものがない私にとって, 柏木家は唯一の居場所だった. だから, 彼らの期待に応えようと必死だった.
しかし, もう違う. 私は, 自分のために生きる.
私は, ベッドに腰掛け, 専門学校の入学案内のページをめくった. 新しい生活への期待と, 少しばかりの不安. しかし, 私の心は, かつてないほどに満たされていた.
私は, もう彼らの都合の良い女ではない. 私は, 私の人生を, 私自身の力で切り開いていく.
その時, ドアがノックされた.
「楓夏, 夕食よ. 」恵美子さんの声が聞こえた.
私は, 一瞬, 心が揺らいだ. しかし, すぐに冷静さを取り戻した. 私は, もう彼らの優しさに騙されることはない.
おすすめの作品





