
臥待ち月の情人 〜月曇り〜
章 3
「お待ち申し上げておりました、如月さま」
半年ぶりに訪れた、隠れ宿「臥待月」。
いつもどおり指定されたのは、黒い薔薇。大きな花束は喜ばないので、一輪だけにして馴染みの男娼、夕に差し出す。 艶やかに笑って、夕は薔薇を受け取りその香りに瞼を閉じた。 俺は夕が目を開けるまで、その表情を無言で見ていた。
今日の夕は一段と美しかった。 深い緑に白い大きな花の模様の着物に、白地に金の縫い取りの帯を腰の低いところで結んでいる。髪は軽く結い上げ、真珠のついたかんざし一本で留めていた。
見とれている俺を、夕の声が促す。
「どうぞこちらへ……夜も更けて参りました」
通された座敷は以前と同じに見えたが、畳の新しい香りで一新されたことが伺えた。 用意された食事の器やお猪口も、見たことのないものに変わっている。 隣の部屋に続く襖も張り替えられていた。 変わらないのは、目の前で微笑んで酒を注ぐ、この美しい男娼、夕だけ。 噂では客に乱暴され怪我を負ったとか。
「如月さま…?」
ぼんやりと考え事をする俺の顔を覗きこみ、夕は呼んだ。
「どうなさいましたか…何か、気にかかることが?」
「……いや」
「襲名の準備で、お疲れですか?」
「…知っているのか」
「はい」
悪びれず、夕は微笑む。そう、ここでは何も隠すことが出来ない、顔色ひとつですべてを見透かされる。
如月組二代目、如月龍生(きさらぎりゅうせい)。襲名披露を来週に控えている。
抗争で命を落とした先代に代わり、若輩者ながら組を統べることとなった。 とはいってもこの現代社会、表向きには優良企業を装い生きている。そもそも俺は極道に向いちゃいない。一人息子という理由で担ぎ出されたが、要はお飾りの組長を作り上げ、幹部連中が牛耳るつもりなのだろう。今まで一般人に紛れて暮らしてきたが、とうとうそうも言ってられない状況となった。 襲名が終わった後、結婚も決まっている。 妻になる女は、俺の性癖を知らない。 知っているのは、この新城 夕(あらしろゆう)と、もうひとり。
「それならお酒はお控えになった方が……」
「酔っているぐらいが丁度いい」
素っ気なく答えても夕は表情一つ変えず、徳利を傾けた。 今日の料理は特に豪勢で好物ばかり用意されていたが、その味もわからない始末だった。
襲名が気になっているわけじゃない。 どれほど向いてなかろうとも、極道の家に生まれたからにはそれなりの覚悟がある。 ただ、どうにも避けて通れない問題がひとつだけ残っていた。
「今夜は……どうなさいますか。いつも通り…か、趣向を変えるのも、楽しゅうございますよ」
何もかも察したように、夕は俺に尋ねた。
「お望みの「姿」があれば、なんなりと…」
「姿…か」
俺はお猪口を置き、夕をまじまじと見た。 初めてここへ来た日を思い出す。夕は、似ているのだ。秋葉(あきば)に。 その風貌に惹かれ、俺は耐えられなくなる度にこの隠れ宿に足を運んだ。 今までは、似ているだけで十分だった。 しかし、今日は……
「……なんなりと、と言ったな」
「ええ。如月さまのお望みをお聞かせいただければ…」
俺は夕の頭を乱暴に引き寄せ、間近でその顔を睨みつけた。怯えるどころか夕は妖艶に微笑み、俺の目をじっと見据えた。 肝の据わっているところまで似ている。 俺は無理を承知で、心の奥に潜んでいた願望を口に出した。
「だったら……」
夕は、かしこまりました、と答えて艶やかに微笑んだ。
夕が支度をするために座敷を出た。 いつのまにか傍らには浴衣が畳んで置いてあった。隣室に繋がる襖を開けると、備え付けの桧風呂があり、白い湯気がもうもうと上がっている。 そして、風呂の手前に敷かれた一組の布団。 見慣れた光景にも関わらず、俺の足は固まった。
ここで何度も夕を抱いている。 しかし今し方、夕に望んだことが、本当に叶うのだろうか。期待が半分、そんなこと出来るわけがないと高をくくっている自分が半分。 どれほど夕が秋葉に似ていたって所詮は他人だ。どんなに似せたところで抱いているうちに興ざめして、萎えるかもしれない。 それならそれでいつものように抱けばいい。 自分を納得させて、俺は風呂に入った。
湯に浸かり、ふうと一息吐き出したところで、背後の襖が開いた。
「失礼します、若」
聞き間違いだ、と思って俺はゆっくり振り向いた。
低く通る声と、その呼び名。 如月組若頭、秋葉嗣治(あきばつぐはる)は、襲名間近の俺をそう呼ぶ。 秋葉は、俺に極道のすべてを教える教育係であり、義兄弟の盃を交わした兄貴分だった。 襖の前で片膝を立て、スーツ姿で頭を垂れる男。 どうしてここに。そんなはずがないのに。
「秋葉……?」
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